見出し画像

人間の認知の限界 ~SDGsや生態系サービスの説明を「個人として」受け入れるには

人間は感情で動く動物である。いかに理論的に正しい行動指針でも、自分の中に行動につながる動機付けが生まれなれば行動は発現しない。

どんなシンポジウムでも、「結局は熱意や感動がなければ事業は進まない」というまとめになるのももっともである。

では、実際に「個人としての」動機づけとなりうる事象とはどのようなものだろうか。どのような社会現象でも、それを受けて個人が動く動機足り得るのだろうか。

「社会」の、時間軸と広さについて考えてみた。

「七代祟る」という言葉がある。 曾祖父母から曾孫まで、自分を入れて七代。 これが、寿命のある生物である「人間個体」が、リアルに感情移入して想像できる時間の限界なのだと思う。
それ以上過去や未来の人の話は、「おはなし」としては理解するけれども、自分との距離が遠すぎて喜怒哀楽までは共有できない。

同様に「向こう三軒両隣」というフレーズがある。 自宅とその両隣、さらにその道向かいの合計6軒。 これくらいが、群れ生物としての「人間個体」が、日常的に感情移入して対応可能な群れサイズなのだと思う。それ以上離れてしまうと、やはり理解としては「対岸の火事」となってしまう。

震災対応やウクライナ支援などの地理的に離れた事象、温暖化対策や食料問題などの長いスパンの問題が、どうしても「我が事」とならないのは、そういった人間が進化上獲得し得た想像力、共感力の限界によるのだと思う。

この、「生物としての人間の想像力の限界」を無視した状態で、SDGsや生態系サービスなどについて広く長い理想を語ってしまうと、どうにも共感しようがない神視点の説経になってしまう。

昨今の出来事に対するSNS上の反応を見るに、行動してほしい社会活動の規模が大きければ大きいほど、「共感が成り立つコミュニティーサイズに置き換えて考える・話す」ことって重要なのだと痛感する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?