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いわゆる「虹の橋」についての考察

動物園で高齢の動物や人気の動物種の個体が亡くなると、多くの方からSNS上や献花台でお悔やみやねぎらいの言葉を頂く。お疲れさまでした、今までありがとう、残念です、安らかに眠ってね。等々である。本当にありがたく思う。

その中で最近、ここ5年くらいよく目にする言葉が「虹の橋」である。
虹の橋を渡ってください、虹の橋の向こうで安らかに、などである。虹の絵文字が添えられることも多い。

亡くなった飼育動物(ペット含む)は、どうやら虹の橋を渡るもの、らしい。

光学的な問題から虹の橋は渡るどころかくぐることすらできない、側面から対峙するなどもってのほかという物理的なツッコミは野暮なのでやめておく。

マリオカートのレインボーロードのようなものも思う浮かぶが、あれも渡り切るのは至難である。多分違うだろう。

虹の橋は、ゆるやかな勾配の虹色の光の中をゆっくりと昇っていく感覚だろうと思われる。

では、虹の橋を渡った先にはいったい何があるのだろうか。わざわざ異なる用語を用いている以上、普通の天国とか極楽浄土とは異なる定義、違ったニュアンスの「あの世」が想定される。虹の橋を渡った先に阿弥陀如来や「ありてあるもの」がいたら、それは虹の橋を渡る必要がない天国である。

虹の橋と書かれたお客様はおそらく仏教式の葬儀をされる方が大多数なはずだが、南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経と書き添える方は皆無である。ごくまれにR.I.P(安らかに眠れ)と書かれる方もいらっしゃるが、キリスト教色がそれほど強い訳でもない。Kyrie eleison(主よ哀れみ給え)などと書く人もいない。

虹の橋は無宗教である。特定の神様や仏様とは結び付いていない。

そして、人間は虹の橋を渡らない。そんな話は聞いたことがない。
飼い主も含めて、ホモサピエンスは虹の橋を渡らないし、その先の世界にも入れない。

それから、自然死や捕食されて死んだ野生動物、事故や駆除で死んだ野生動物が虹の橋を渡った話も聞かない。牛や豚や鶏などの家畜(経済動物)も虹の橋は渡っていなさそうである。人気の競走馬は渡るかもしれない。

死ぬと虹の橋を渡るのは動物だけ、それも愛玩動物や展示動物だけである。

虹の橋の先は純粋に彼ら動物だけの楽園である。

その世界は、他のペットや飼育動物たちがわんさと住んでいて仲良く過ごす、という概念でもない気がする。ただただ暖かな光の中で安らかに漂っているような感覚、なのかもしれない。

そしてそこには、生まれ変わって元の飼い主とまた巡り合う、というその先のストーリーもない。

これは実は、「人間と過ごした今世を終えた先の、人間に飼われない世界線のほうが自由で幸せである」ことを暗喩している。その動物の今世が苦痛に満ちたものではなかったにしても、人間のいない場所のほうが「より動物らしく」過ごせる、という思想が原点にある。

裏を返せば、虹の橋とは「人の手によって奪われてしまった愛玩動物本来の生を、死後に虹の橋という架空の概念の先で実現させていると考えることで、飼い主や愛好者が感情の平穏や癒しを得るための世界」と言えるかもしれない。

つまり我々は、無意識のうちに「動物を飼う」ということに原罪ともいえる罪の意識を持っていて、その矛盾から逃れるために「動物だけの楽園」「動物が人間から解放される装置=虹の橋」を必要とし、創造してしまった、のだ。

【まとめ】虹の橋とその先の世界観
①人間はいない。当然、飼い主もいない
②神様はいない。無宗教、または特定の宗教と紐づいていない
③渡れるのは愛玩動物や展示動物だけである
④動物しかいない、または動物一頭ごとの世界である
⑤輪廻転生はしない

「虹の橋」は、思想的には自然回帰主義やアニマルライツ、ウィーガニズムなど現代の自然環境運動の影響を薄く広く受けている、既存の思想や宗教に対して排他的要素の少ない概念だと思われる。だからこそ広まり、定着してきたのだろう。


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