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標本の展示はこうあるべきだというお手本を富山市科博で見た話

富山市科学博物館では、この夏の間、特別展「大集合!富山の鳥たち」を開催しています。一昨年亡くなられた自然博物園ねいの里初代館長の湯浅純孝氏のコレクションを中心に、膨大な数の鳥類の剥製(はくせい)標本を展示しています。他に学芸員の部屋の再現や、卵殻・骨格・羽毛・鳴き声など幅広いジャンルを網羅しており、野鳥ファンじゃなくても必見の特別展です。

特別展内の展示は全て撮影OKです。
記念撮影用の帽子(特注)。
学芸員のお部屋の展示と、学芸員。

剥製標本は、生息情報だけでなく、その個体の形態的な特徴を何度でも確認できる貴重な資料です。かつて生きていた本物の個体の姿を実際に目で見て、他の個体や近縁種と並べて比較・確認できるメリットは非常に大きいのです。博物館が積極的に標本資料を収集・収蔵する意義もここにあります。

上段がムギマキ、下段がノゴマ。全てにいつどこで採集されたかの記録があります。


双眼鏡もカメラも使わずに、アカオネッタイチョウの足指を確認できる訳ですよ。そしてアカオネッタイチョウ、小矢部市で記録あるんだーという気付きも。

しかし、来館者から見ると、第一印象としてそこに並んでいるのは「本物の生き物」ではなく「死体」です

しばらく来館者の反応を眺めていると、特別展の部屋に入った来館者、特に子供たちの第一声で圧倒的に多いのは「これ本物かな?」です。そして、第二声には「かわいそう」が来ます。

サンコウチョウの尾羽の比較。

動物番組やYOUTUBEで見る「生きた動物」の姿のほうがリアルな「本物」で、ここに並んでいる剥製を「死んじゃった生き物」と捉えるのは自然な感情だと思います。

放っておくと、来館者が「ここは乾燥した死体の資料がいっぱい並んでいる目的不明なかわいそうな場所」、という強烈な第一印象だけを持って特別展を通過してしまう可能性がとても高いです。

ヤツガシラの冠羽。

ここで必要な博物施設の仕事は、「埋葬してしまうよりも、剥製標本として残し、集めることでわかることも多い」「標本を収集し、収蔵することは社会にとって大切な仕事」「多くの剥製標本が残っているからこそ後になって調べられる分布や形質変化の情報も多い」といった、自館の存在理由にもかかわる博物学の意義についての解説なのです。

なのですが、「たくさん並んだ死体」というファーストパンチの衝撃があまりにも大きいので、そんな来館者が元々聞きたい訳でもなかった説明情報は、どれだけ大きなフォントで解説を書いても、どれだけポップで目を引く楽しげなイラストを添えても、自動音声ガイダンスを流しても、まあまず意識されることはありません

展示室内に所狭しと並んだ死体のほうが圧倒的な存在感だからです。

これは鳥類だけでなく、昆虫標本の展示でも同じことが起こるでしょう。こんなに集める必要あるの?なんでこんなにあるのにまだ集めるの?かわいそうじゃない?が最後の感想のまま展示室を出られては、何のための展示なのか本末転倒です。

この状況を打開できるおそらく唯一の方法は、「展示を作った人が自分から自発的に来館者に話しかけること」です。

なんだかんだ言って、人間にとって一番重要な情報源は他者からの直接の言葉です。

富山市科学博物館ではそれを実践しておられました。「これ、実際富山に住んでいた生き物なんだよ」「ほら、爪とかくちばしとか、実際に見てみて」「これだけの標本があるから、いついつ、どこにどの鳥が確実にいたか、っていうのがわかるんだよ」等々。フレンドリーかつ丁寧に。

アカショウビンの腰の羽を肉眼で確認できるのは、剥製標本だからです。

特別展の部屋には常時一人、繁忙期には同時に4人もの博物館スタッフの方が解説に立っておられました。言うは易く行うは難し、です。頭が下がります。

この先、どれだけAIが発達し、世の中がバーチャルな表現物で溢れても、学芸員が肉声で来館者に語りかける意義が薄まることはないでしょう。むしろその必要性は高まっていくかもしれません。

この特別展が終わるころには、担当の学芸員さんはゲッソリ痩せているかもしれないので、そういうところもみなさん何度か見に行きましょうね。

展示の面白さは私が保証します。


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