終章 恥ずかしげもなく語ろう。よい人生とは。幸福とは。
ここまで、2024年9月4日に立ち上げる
「まめじゅく~人生七転び八起きリベンジャーズ」
の構想を全九章に渡って述べてきた。いよいよ最終章。
「まめじゅく」のコンセプトは、つまり、科目を教えることが目的ではなく、志望校の合格を目的とするわけでもない。
「あなたの人生逆転をサポートする」
これに尽きる。
1,「よりよく生きる」って何?
(1)誰もが想うこと
よりよく生きる
これは誰もが願うことだろう。
そのために宗教にすがる人もいる。趣味にのめり込む人もいる。アルコールの力を借りる人もいる。ドラッグに支配される人もいる。
多くの人は、現状に不満で、自分を取り巻くいろんなことや、自分自身を、変えたいと、もっとよくなって欲しいと、心のどこかで思っているのではないだろうか。
それはごく普通のことで、そういう想いを強く抱く気質があったから、人類は、ここまで発展できた。
(2)結局はその人の「解釈」ではないか
ところで「よりよく生きる」とは、どういうことなのだろう。
常に成長し続けることなのだろうか。
常に穏やかで落ち着いた暮らしが続けられることなのだろうか。
山あり谷ありの刺激的な日々を送ることなのだろうか。
結局は、じぶんが決めることではないだろうか。
ニーチェに言われなくとも、
「解釈次第」
ではないか。
(3)誰と比べて言っているの?
よく「人と比較すると不幸になる」といった教えを目にするし耳にもする。
ところが、「人と比較しないでおこう」と、すぐに実践できる偉人はどのくらいいるのだろうか。
そもそも「比較するな」と言われてすぐに実行できる人は、もとから不幸でも何でもない気がする。
幸福
不幸
どちらも相対的な価値基準で、数値化できるものではない。いやもし数値化できたとして、どうなるんだ。
「よりよく生きる」というのも、誰と比べて、というものさしが変われば、色々解釈は変わる。比較対象をどこに置けば正解なのか。
「過去の自分」とカッコつけてみたところで、やっぱり人と比較してしまいがち。これはもう、社会性をもつ生物としては、仕方のないところではないだろうか。どうなんだろうか。
2,宗教に救いを求めて本当によいのか?
(1)「南無阿弥陀仏」を生きる目的とする人たち
一時期、浄土系の仏教を学んだことがある。家が代々浄土宗だったこともあり、また、ご縁あって、浄土真宗の教えにも学ぶ機会に恵まれた。
浄土宗よりは浄土真宗の方が、どちらかというと尖っている。
人はなぜ生まれたか。人はなぜ生きるのか。
それは「南無阿弥陀仏」を唱えるためだと。
それが人が生きる意味であり、目的であると。
そ、そりゃあ信長に立てつく勇気もわくだろう、こりゃ自分には無理だ。
でも、ひとつ、大事なことを教わった。それはまた後で。
(2)天理教の「陽気暮らし」
元妻は天理教の教会で生まれ育った。天理教と共に生きてきた人だった。7人きょうだい全員、天理教を信仰していた。生まれた子どもは自然と信者として扱われ、あたりまえのように教義を叩きこまれた。
配偶者となった私も当然のように、組み込まれかけた。片足はツッコまされたけれど、逃げた。
陽気暮らし
神は、人間に「陽気暮らし」をさせるために、私たちを創造したのだ、と解く。
「南無~」と言ってみたり「~のミコト」と呼んでみたり、迫害から生き残るために神仏どちらも取り込んできた歴史が、今も残されていた。古事記や仏典からのパクリがいちいち鼻について、同じ話を繰り返し聞かされても洗脳はされなかった。
信者の方々が幸福ならそれでいいのだが、私には無理だった。
(3)結局「まやかし」ではないのか?
本当に宗教とは「まやかし」だと思った。
かなりの間、私は宗教に対して侮蔑というか、嫌悪感を抱いていた。そこで出会った人たちは、純粋で誠実な人たちばかりだったけれど、自分もその輪に入りたいとはどうしても思えなかった。
でも、人生いろいろあって、どん底まで落ちて、気づいた。
「まやかし」
これがすごく大事なことなんじゃないかと。
これを「幻想」と置き換えてもいい。
そう、「よりよく生きる」こととは、まやかしで、幻想なのだ。
え?どういうこと?
(4)すごくあたりまえの結論
宗教は本当に救いになるのか?
それは、
腹の底から信じられるかどうか。
結局は自分次第、という、あたり前の結論に落ち着く。
そうして、かつて私は宗教を「方便」と思い、「まやかし」と思い、「幻想」と見下していた。
南無阿弥陀仏を唱えたら極楽へ行けるって、何を根拠に?
ほんとうのどん底に落ちるまでは、そういった事を「人をだまくらかして金儲けをたくらむ悪人の所業」だと侮蔑していた。
でも、幸福で穏やかだった私の人生がひっくり返った。地獄って本当にあるんだ、と腹の底から感じ取れた。
そのどん底にいるときに、わかった。
たとえそれが「まやかし」でも「幻想」でも、人が、人間として生きていくためには、必要なことだったんだ、と。
今も、私はすべての宗教について、嫌悪感は完全には拭えないし、信仰心というものはほぼ、ゼロである。
無神論
とまではいかない。
神道の大学に通い、古事記や日本書紀を学び、伊勢神宮をわが庭のようにして育った。神道への想いは深い。
でも「神様」とは、結局人類の脳内で生み出された「フィクション」であり、存在するとすれば、私たちホモサピエンスの脳内にだけ、という考えだ。あるいは様々な自然現象を「神様」と解釈しているだけだと。
ただ、人類がここまで発展してこられた要因のひとつとして、宗教のもつ力を、認めざるを得ない。
『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ著・柴田 裕之訳 河出書房新社)という刺激的な本がある。ここでも、人類の発展において宗教がどれだけ画期的な「発明」であったのか、詳しく語られている。
だから、腹の底から信じられる(=うまく活用できる)なら、宗教は「よりよく生きる」ためのツールとして最高なのかも知れない。
ブッダもキリストも、推しのように不祥事は起こさない。引退もない。
しかしどうしても、私は宗教者にはなれない。宗教芸術も大好きだし、歴史も哲学も好きなので、そういう意味で「アリ」だが、特定の教えを盲目的に信じ込み、信仰に人生を捧げるのは「ナシ」だ。
ただ、浄土真宗の僧侶から学んだことで、ひとつ大事な気づきがあった。
腹の底から信じられる何かを手に入れられたら、それが宗教じゃなくても、何であっても、よりよく生きることができるんじゃないかな、という想いが、益々確信に変わっていったのだ。
3,まやかしでもいい、幻想でもいい。
(1)志を立てる
あたり前のことをあえて言い続けている。大切なことだからだ。
またもや、当然のことを述べる。
人生を逆転させたいなら、まずは「志を立てる」ということが、第一歩。
もちろん、多くの人は途中で折れてしまう。
そりゃそうだ。夢と暮らしの狭間でごちゃごちゃになるのが、普通だからだ。
何度も何度も折れてしおれて枯れ果てて。
でも、それが普通だ、と思える(=解釈)ようになれば、何度でも復活できる。「七転び八起き」の精神だ。
禅宗の教えでよく聞く
「あるがままを受け入れよう」
これだって立派な「志」だし、
「志なんて立てなくていい」
という決意だって、立派な「志」だ。
(2)「矢印」思考
「志」について語るには、結構な文字数がいる。これをシンプルに考えたいなら「矢印」をイメージするといい。
自分は、どの方向に矢印を描きたいのか。
どこに向かいたいのか。
そこを決める、決めたらそれに基づいて行動する。継続する。積み重ねていく。ねじ曲がっても、ポキリと折れても、また引き直せばいい。
それだけのことなのに、これが、難しい。
だから「まめじゅく~七転び八起きリベンジャーズ」」は、あなたの矢印が折れてしまっても、曲がってしまっても、結果それで良かったと思えるように、サポートするし、再び矢印を引きなおせるように、支え続ける。矢印の先にたどり着くまで。
そのための教室だ。
そもそも矢印なんて描く必要はない、という考えも否定しない。それもひとつの「解釈」であり「志」だからだ。ただその場合、私の支援は必要としないだろう。
(3)道中を楽しむ工夫
私見では、あなたが引いた矢印の向こう側に、真の幸福があるわけではない。
矢印の向こう側に至る過程を楽しめなければ、よい人生とはいえないのではないか。
それを楽しめるかどうかも、結局自分次第なのではあるが、
道中を楽しめるということは、間違いなく幸福につながる。
釣りで一番楽しいのはどこだろう。釣り上げたときなのかな。私は、海が近づいて、潮風が鼻腔をくすぐる瞬間から、魚が喰いついて竿がビクビクン、とくる瞬間までが、いちばん楽しいと感じた。
釣ってしまえば、そのうち、後片付け、という大嫌いなイベントが待っている。憂鬱になる。
釣った魚を調理して、みんなで食べることも楽しいけれど、その後食中毒という一大イベントが待っている場合もある。これは本当に注意すべきだ。
小説でいちばん楽しいのはどこだろう。これも人によるけれど、かなりの確率で、ラストに至る過程なのではないだろうか。
主人公や登場人物たちのピンチや、それを克服する過程や、意外な敵が味方になってくれたり、まさかの人たちがくっついたり、誰かが急成長していきなり活躍し出したり。風景描写に美しさを感じたり。感情描写にシビれたり。
それで、読み終わって、しょぼい結末に、何だよコレ!時間を返せ!と怒りに震える経験は無いだろうか。テレビドラマだったらあるかな?
あくまで例え話である。ゴールの先が常に幸福とは限らない。
そもそも「よい人生」と「幸福」はイコールでない気がする。
これは後でまた述べる。
道中を楽しむ工夫を、色々こらしたい。その中に、私も入れてもらえたら嬉しい。
4,恥ずかしいけれど、恥ずかしげもなく語る「よい人生」
(1)「よい人生」の定義
繰り返す。
ニーチェに言われなくても、
よい人生
なんて
結局は「解釈」にすぎない
自分の「解釈」でいいんだ。
いつか、
あーいい人生だった
と思えるように、
そちらに矢印を定めて(「志(こころざし)」)、進めばいいのだ。まやかしでも幻想でも何でもいい。周囲に迷惑をかけず、法に触れなければ。
転んだら、立ち上がる。
矢印が折れたら、引きなおす。
ひん曲がっても、引きなおす。
そのお手伝いを、私はする。
あなたが引いた矢印のゴールにたどり着けるように、
支援する。
そして最後の最期に、
「いろいろあったけれど、あーいい人生だった」
って終われるように。お互いにね(*´▽`*)
(2)「学ぶこと」の力を信じて
そんなオンライン教室が「まめじゅく~七転び八起きリベンジャーズ」なのだ。
大それたことをやると決めたなあ、と自分でも思う。
私は特定の宗教を信仰することは無いけれど、
腹の底から信じられることに出会った。
それは、
学ぶこと
である。学問という意味だけでなくもっと広い意味で。
人は、学ぶことで、必ず成長できる。
スピードも、深さも、個人差はあるだろう。
それでも、志がある限り、学ぶことで、必ず成長できる。
本居宣長が弟子たちに乞われて書き残した『うい山ぶみ』という著作がある。ざっくりいえば「国学入門」である。そこで彼はいう。
「やり方なんて何でもいい。何があっても継続しろ。」(意訳)
どんなに才能に乏しくても、どれだけ心へし折れても、
学び続ければ、必ず、学んだだけのものは得られる。
これを心の底から、腹の底から、信じている。
私は決して賢い人間ではない。勉強がとても苦手だった。計算ドリル20問、4時間かかっても終わらずに親にキレられビリビリに破られたドリルを提出して担任にキレられ殴られるような子どもだった。
でも、宣長をはじめ、様々な「師」との出会いの中で、関わり合いの中で、学ぶことが大好きになった。卒論100枚を書き上げる作業は、楽しくて楽しくて、夢のような時間だった。
それで、塾というサービス形態にしがみついて、学ぶことの楽しさ、素晴らしさ、そして、学ぶことで確実に人生を変えることができることを、伝えたいと日々もがいている。
(3)「幸福」の定義
幸福の正体は、脳内物質(アドレナリンやドーパミンなど)の分泌状態によるものだ。
だから、今日もいつものビックマックをかぶりついて、至高の幸福を得られる人もいれば、チープなお肉ね、とガッカリする人もいるかもしれない。うん、フツーやね、と何も感じない人もいるだろう。
吉野家でひとり「うまいよーうまいよねー」と言いながら涙を流して牛丼を食べている若者を見たことがある。何があった。
あくまでも脳内物質の分泌状態によるものであるから。
ずっと幸福でいられる、というのは、結局、幻想である。実際には、解釈の仕方というか、受け止め方というか。
ということは、あなたの感受性そのものを変革していけば、幸福はすぐにでも手に入るという事になる。
ちょっと、試しに私を利用してみて欲しい。「学ぶこと」を通じて、あなたの人生を一緒に変えてみませんか。
5,さあ、次はあなたの番。
2024年9月4日。
「まめじゅく~人生七転び八起きリベンジャーズ」をスタートさせる。
教室は持たない。あなたのスマホやPCの画面の中が教室だ。よって家賃や光熱費は発生しない。その分、授業料は断然安い。
事務所は京都市におく。普段は宣長が暮らした土地でこれまで通り静かに生活していく。
完全オンラインなのは、地域密着にしたくないから。「地元のしがらみ」に関係なく仕事がしたい。
地元のしがらみによって、自ら命を絶たなければならかった人たちを、葬儀の仕事でたくさん見てきた。
私も一度は、地元のしがらみに潰されそうになって、自滅した。
これからは、しらがみに関係なく、全国規模でやりたい。
地元を愛しているけれど、それとこれとは別。
さあ、次はあなたの番。
あなたの「人生を変えたい」という想いを、支えます。
あなたがどこにいても、画面の向こう側で、私は、支えます。
誰かの応援をしているときの自分が、いちばん幸福で、いちばん自分らしくいられるとわかったので。
もう大丈夫。ワシもついとる。