第一章「自分を変える」ために
「置かれた場所で咲きなさい」vs「咲く場所は、じぶんでつくる」
『置かれた場所で咲きなさい』(渡辺和子 幻冬舎)は、2012年のベストセラー。
今はもう手元には無いが、こんな内容だった。( )内はわたしの心の声。
・現在の自分と環境を受け入れましょう。(どうやって?)
・困難を成長の機会として捉えましょう。(どのように?)
・日々の小さな幸せに気づき、感謝しましょう。(どういうふうに?)
更には、
・「今、ここ」を大切にしましょう。過去や未来ではなく、現在に集中しましょう。(これはマインドフルネスそのもので仏教も同じですね?)
・比較をやめましょう。他人と比べるのではなく、自分の成長に注目しましょう。(これも最初に言ったの誰だっけ?ずっと言われていることですね?)
・小さな一歩を踏み出しましょう。大きな変化は小さな行動から始めましょう。(ローマの道は・・・って昔から言いますものね?)
正直にいう。
それができないから、苦しんでいるんじゃないでしょうか。
「置かれた場所で咲きなさい」
それが誰でもできるんだったら、苦労は無いのです。いまこの本が、わたしの手元にないってことは、それができる具体策は何も無かったということです。少なくともわたしにとっては。
おっしゃっている事は素晴らしいことだし、それができるなら、人生、どんなに良いかわからない。
しかし現実には「置かれた場所」で生きていけない人たちが、いる。わたしも何度も逃げ出した。
咲きなさい、と言われても、置かれた場所で、咲き方がわからない人たちが、いる。私も何度も挫折した。
だから「咲く場所は、自分でつくる」という選択肢を提示したい。
そもそも「咲く」って何だ?
抽象的なメタファーである。咲いているかどうか判別は誰がするのだ。
年収がいくらあれば「咲いた」といえるのか。
どんな職業に就いていれば「咲いた」といえるのか。
配偶者がいれば「咲いた」といえるのか。
子宝に恵まれたら「咲いた」といえるのか。
そんなものは「人による」のだ。
「咲く」って何だ。
わたしの好きな短歌を紹介する。桝野浩一という人の作品だ。
「誰からも愛されないということの自由気ままを誇りつつ咲け」
「咲け」は、
自分らしく生き抜け
というメッセージだと解釈している。
そう、「咲く」とは「自分らしく生きる」ことであって、
誰かから賞賛されたり、評価されたりする「承認欲求」を手放すのは中々難しいけれども、他人の評価なんて「副産物」であって、それを目的にしたらしんどいだけなんだろうと思う。
「自分らしさ」というまやかし
自分らしさとは、幻想だと、いろんな人が言っている。わたしも実は、幻想だと思う。まやかしだとも。
でも、その「まやかし」こそが、自分らしく生きていくために、大切なことなのだ。
『センゴク一統記』(宮下英樹 講談社)という漫画作品で、作者は、織田信長にこんな名言を吐かせている。
「まず大言を吐き」
「失敗しようと年月を経ようと」
「大言の実現にこぎつけるのだ」
そもそも「自分らしさ」なんてものは、あとからいくらでもつくれる。
もちろん、つくろうとしても失敗の方が圧倒的に多いだろう。そんなに甘くはない。
それでも「サントラ」(Creepy Nuts×菅田将暉)を初めて聴いたとき
この人生ってヤツはつくりばなし
自分の手で描いていくしかない
あの日でっち上げた無謀な外側に
追いついていく物語
すぐに『一統記』の信長公のセリフも思い浮かんできて
自分らしさは、自分でつくれるものだ
という自分の考えがより鮮明に、解像度を上げて、ある衝動につながった。
「幻想」で「まやかし」なんだとしたら、自由しかない。可能性しかない。
つくろうぜ。
「なりたい自分」にはなれないかもしれないが、なれるかもしれない。
人生でつまずき、挫折して、生きることに苦しんでいるそこのあなた、
わたしもそうでした。
でも今、着実に復活しようとしているので、ちょっと勢いがあります。
一緒に来ませんか?
過去は変えられないけれど、
なりたかった自分
今からでも、一緒に目指しませんか?
咲く場所を、じぶんでつくりませんか?
ぼくは、ようやく、第一歩を踏み出そうとしていますよ?
あなたもどう?
っていう活動を、これから、やる。
死にたい死にたいと毎日苦しんでいた、じぶんを変えるために。
死にたい死にたいと毎日苦しんでいる、あなたを変えるために。
偽善でも何でもいいのだ。
誰かの応援をしているときのじぶんが、わたしは、いちばん自分らしいと思っているのだから。
(提案1)環境を変えよう
ありきたりで当たり前のことであるが「環境を変える」ことで、変わることがある。
もちろん、変わるかどうかは、自分次第だと、そんなことは言うまでもないけれど。
それでも環境を変えずに自分を変えるということは、困難である。
ここでいう環境とは、
小さなことであれば、自分のデスクまわりを整理整頓、清掃することだったり、大きなことであれば、住所を変えてしまうことだったり。
また、食生活など生活習慣を変えることで劇的に変わることがある。「習慣を変える」ということは、環境を変えることに含まれる。
まずは小さなことからはじめてみる。
どれが自分にとって良かったかは、あとになってわかることで。
だから何でもやってみる姿勢って、ほんとうに大事。
「断捨離」とはまた少し違う、身の回りの整理術などの小さなことから、
移住支援という大きなことも含めて、
具体策を、今後提示していきたい。
(提案2)学び続けよう
大人になっても一生勉強だよ
そんな風にいう人は多い。
ところが実際にどこまで学び続けていられるか、なかなか現実は難しい。
それでも、自分を変えるためには、学び続けるしかない。
ここでいう「学び」とは、幅広い意味で捉えて欲しい。
もし他人からすれば、そんなことをして何の得になるのか?と思われるようなことでも、
じぶんの毎日が輝き出すなら、それでいいと思う。
例えば、コンビニでアルバイトをしている方が、中世の城郭について調べ始めても、接客スキルが向上するわけでもないし、常連さんがいつも買うタバコをおぼえられるわけでもない。
それでも、休日に中世の城郭について色々調べていくうちに、同じ趣味を持った仲間ができて、著名な研究者とお知り合いになれて、行きたい場所があちこちできたなら、
それだけでも、その人の人生は、輝き出す。その人が本当に好きなことであれば。
「学び」とは、別に机にかじりついてするだけではない。
私は50歳を過ぎて、今、うまれてはじめて、飲食店でアルバイトをしている。
それは、自分の学びのために、である。学べてお金も稼げるし、身体をとにかく酷使するので、ビールがうまいのなんの!(いやこれ大事!)
ほんとうは、じぶんにとって、こんなに向いていない業種もないと思う。
長時間トイレに行けないし、ずっと立ちっぱなしだし、手先の器用さと迅速さ、たぶん「忙しさ」において、こんなに過酷で理不尽な業態は中々ないと考えている。おっとりしていてどんくさい私に向いているわけがない。
よく言われるのは「自分に合った仕事をしなさい」・「自分の適性に沿って仕事を選びなさい」ということだ。
私はこれまでは、そうしてきた。
50歳を過ぎて、あえて、自分がやってこなかったこと、逃げてきたことに真正面からぶつかっていきたい、と心底思った。
実現したい夢ができた。
学習塾とフリースクールと子ども食堂と就労支援施設と、そしてお腹いっぱい食べられる食堂&cafeをミックスさせたような、そんな場所を立ち上げたい。
その件に関してはここでは深く立ち入らない。「学び続ける」話をいま、している。
その夢のために、学びを得るために、あえて苦手な飲食店で働いている。働いていると、「飲食人脈」ができる。出入り業者さんも含めて、業界の人たちと知り合える。
お店を回していく「しくみ」が理解でき、「スキル」も身に付く。集客に必要なこと、不要なこと、戦略・戦術、接客スキルに調理の基本・・・
激烈に忙しいので、いかに無駄なく効率よく、お客様に笑顔になってもらえるか、その方法論、考え方・・・失敗経験も含めて、とにかく学びしかない。
若い頃から、ずっと組織のトップだった。長い間「会長」と呼ばれ続けた。
そんな私が、自分の子どもより年下の「先輩」に「はやくして!」・「ちがう!」と叱られながら、「はい!すみません!」と働くのは、
ある視点からすれば、こんなみじめなことは無いのだけれど、
別の視点から考えると、これまでやってこなかった貴重な経験をさせてもらっているのだ。ほんとうに学びしか、ない。
そこで学んだことが、本業にも必ず生かされる。生かせるかどうかも結局、自分次第なのだけれど。
さてこれからが本番。
自分を変えるためには、
・環境を変えよう
・学び続けよう
このふたつが柱となることは間違いのないことである。
第三章から、更に具体的に提示していく。
自分次第なんだけれど、自分次第で、人は、変われる。必ず。
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