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京都銭湯巡り | 初めての水風呂

温泉、スーパー銭湯へは行くが、いわゆる昔ながらの町の銭湯に行ったのは小学生の頃に一度だけだったと思う。温泉、スーパー銭湯、昔ながらの銭湯、それらの区別がつかず、全てただの大きなお風呂、という認識しか持ち合わせていなかったので、小学生の頃に入ったあのお風呂が、あれは銭湯だったのかと認識したのは大人になってからである。

人生二度目の銭湯に入ったのは30代半ばになってから、しかも京都で。身体を洗い湯船に浸かりそれで終わりだったわたしが、意図せずサウナの快感を京都の銭湯で覚えてしまうのである。

サウナブームが到来する少し前、パートナーがサウナにどハマりし、大阪難波にあるアムザ、そして梅田にある大東洋へ毎週末のように通っていた。サウナで温まるまでは良いがその後の水風呂に入る行為がわたしには到底理解できないもので、温まったのに何故に冷やす?と、頭おかしいんじゃないの?くらいにまで思っていた。しかし、サウナブームがあらゆる媒体からもたらす情報が、それは違うよ、とわたしを諭し始めるのである。どうやら温と冷を繰り返す事で血流量が増え健康面で良い効果をもたらし、いわゆる、ととのう、状態をつくり出すらしい。しかしどれだけ言葉で説明されても、水風呂に入ってみたいとは1ミリも思わなかった。

京都に有名な銭湯があり、そこが新しい店舗を出すべくクラウドファウンディングで資金を募っているらしい、パートナーはすかさず寄付をし、見返りに銭湯の利用権を獲得した。新しく完成した銭湯は完全貸し切りの1組ずつ入れ替え制で、銭湯というよりかは、豪華な貸し切り風呂といった具合だった。ビルの屋上に露店風呂、水風呂、寝転んで休憩できるスペース、そしてサウナが備え付けられており、わたしも共に利用させてもらった。

気持ち良く露天風呂を堪能していたが、せっかくだからとサウナに入るよう促され、水風呂には絶対に入らないと念を押し、蒸気立ち込める灼熱の中へ入った。馬鹿じゃないのか?こんなに蒸されてわたしは蒸し料理にでもなるのか?そんな事を考えていたら、「強くない?」そう言ってパートナーはわたしよりも先に外へ出た。後々実感していくのだが、どうやらわたしはサウナの熱さに強いらしかった。

サウナを出るとパートナーは網が張られた上に寝そべっていた。わたしもその横に同じようになると、一面空の下、熱を帯びた裸に触れる爽やかな風がとてつもなく心地よく、それはこの上ない快感をもたらした。身体が冷めてくるともう一度先程の心地よさを体感したいとサウナへ戻る。水風呂に入ったらもっと気持ちいいでという言葉に心が揺らぎ指先を水面につけてみたがやはりそれは無理な話だった。しかしわたしは生まれて初めてサウナの良さというものに少しばかり触れたのだ。

元々京都が大好きだ。もっと早く京都の魅力を知っていたら絶対京都の大学へ入っていたのにと、大阪の大学へ進学したのを後悔する程に大好きだ。なので休みの日は京都へ出かけることが多い。

パートナーがサウナにハマり初めて迎えた夏、その日は出町柳でレンタサイクルを借り東から西へ自転車をこぎながら市内を巡っていた。夕方にさしかかる頃、盆地の京都を1日中自転車で移動し汗だくになっていたわたしたちの行く手に3本の湯気が立ち上る。ちょっと入って行かない?そう言われ、着替えも持ってきていないからと返事すると、汗を流すだけでも絶対に気持ちいいと懇願されたので突如現れたその銭湯にお世話になることにした。確かこの時の銭湯が、初めて水風呂に入った記念の銭湯だったはずだ。

京都の銭湯でサウナに入ってみたいとパートナーが宣った。わたしはサウナには入らない、けどまあお風呂は嫌いではないからいいよと言った。僕2時間くらい出てこないよとか言うので、何考えてんだと思ったが、先に出たらどこかでお茶でもしててとおこづかいをくれたので許してやった。それが夏の気配がしてくる少し前のこと。わたしは確かカフェで優雅にアイスティーをちゅうちゅう吸っていたと思う。

汗だくの手にいつものように貰ったおこづかいを財布になおし、すっ裸になる。何も持ってきていないので番台で買った諸々で頭のてっぺんから足のつま先までを綺麗に洗い流す。周囲を気にしつつ大きな風呂の中で足を思いっきり伸ばし、なんと気持ちの良いことかと先程まで渋っていた自分のことなんぞどこかへ忘れてしまう。

湯舟の中からサウナ扉へちらと視線をやる。屋上での感覚が頭をよぎる。気持ち良かったよな。ちょっと入ってみようかな?中がどうなっているのかわからない、ルールも全部は知らない。だがサウナのテレビドラマを家で強制的に流されていたのでなんとなくは知っている。そんなことをやんやかやんやか頭で呟きながら勇気を出してみようじゃないかと幾人ものわたしが脳内会議の末決定を下した、イヤだったらすぐに出るカードはもちろん携さえて。

秒ですぐに退室したが、学生の頃興味本位でスーパー銭湯のサウナに入った事はあった。だからわたしの中のサウナのイメージはそこに起因する。しかし、京都でのそれはとても小さかった。屋上でのサウナ室ももちろん大きくはなかった。だがあれは貸し切りという前提があったので大きさの予想がつく。今回は貸し切りではないのにそのサイズは貸し切りのものだった、つまり小さかった。

緊張を全身に貼り付け挑んだがすぐに撤退するという惨事はなくしっかり蒸されるという結果を残して小部屋を後にできた。蒸し上がった体は既にサウナ室の外にあるのだがそれでもなお熱い、世に言う外気欲スペースなるものが存在しなかったからだ。日中に溜め込んだ真夏の熱気をも含んだ体を冷ますのに向かう場所は湯気の立ち込める浴室内にただ一つしかなかった。足だけ浸かろうそれなら安心だろうそうしよう。2人入ったら満員サイズの水風呂の前へ向かい恐る恐る掛水をするのだが冷た過ぎて震えた。これ人間が入って大丈夫なのか?入る入らないのせめぎ合いが起こりそうになるが恐怖よりも熱さに屈する気持ちの方が勝った。足だけだからと片足を入れると痺れる程にキンキンで続いてもう一方も踏み入れたその瞬間ザプンとわたしの体は水中に吸い込まれていった。全てが一瞬で抗う余地も術もなく、なんじゃこりゃと思った時には胸元まで水に浸かっており、己の意志は関係無く晴れてわたしは水風呂デビューを飾っていた。

京都の風呂は深い、おこずかいスタイルで銭湯を利用していく中で学習していたことだけれど、水風呂まで深いとは想定外だった。わたしが最初に片足を踏み入れたのは水風呂の中の段差部分であったらしく、そんなこと知る由のない熱々のもう一方の足が湯舟の底まで沈んでいったのだ。

入ってしまうと、もうそれは入ってしまっているので、それ以上の恐れや不安はもう存在しないのであり、わたしは水風呂の中に膝を付き首元まで浸かるとそのまま鎮座する事にした。すると喉元を通る息が徐々に冷たくなっていくのを感じるとともに上半身が重力を失い前後に小さく漂いはじめ無意識の快感が脳と体からわたしの意志を奪いとる。思考がふわふわし始めそれは風船となり頭上を浮き頭から伸びるヒモ1本でわたしと繋がれているだけだった。そしてわたしは気付くと自身を取り巻く平和な世界に感謝し、今この瞬間こうして生きていることに涙しそうになっていた。ありがとうございます、ありがとうございますと脳内で呟くその心は近年稀に見ぬ穢れなきものと化しており、無意識の中で湧き出たその思いに頭上を浮き漂う風船が関係しているのかいないのか、ともあれ無意識であって無意識でないこの願いはやはりわたし自らが望んだ願いということになるのだろう。

ばしゃッと背後で音がした。ハッと内に向いていた意識が外界へと戻り、振り向くと掛水をしているご婦人がいた。浮遊していた風船はするすると脳内へヒモを手繰り寄せられ姿を消していた。水風呂から上がり洗い場の前に座った自分が鏡ごしに不思議そうな顔をしてこちらを見る。さっきのなんや、、、切に思うってああいうことやな、魂が抜けて行くときってあんな感じで死んでいくんか?何かのカルト宗教にはまっていくときってこんな感じなんか?裸のわりには考える事が多すぎる状況で椅子に腰かけた体は水風呂での浮遊感が嘘だったかのようにだるみを帯びていった。きっと水風呂に少し長く入り過ぎてしまったのだろう。落ち着くまでそのまま時間を置き、最後に温かい湯に軽く浸かったら体の水気をふき取りわたしは脱衣場へとむかった。

初水風呂での出来事やその時に感じた気持ちの変化などはしっかりと記憶されているのだが、おこづかいスタイルで何度も銭湯を利用していた時期なので、時が過ぎた今それがどこの銭湯でどのようなサウナ室だったかは残念ながらしかと定める事が困難である。恐らくここかここだろうと2つ3つに絞ることはできるのだが京都市内には銭湯が多くつぎはぎの記憶が点在していてその全ては定かでない。メモ程度でも日記のようなものを書き留めておけばよかったというのは後の祭りでひばりである。

水風呂で体と頭が体験したことは自分の中にまだこんな未開の地があったのかという驚きとサウナへの興味を大きくそそるものとなった。気持ちいいという言葉では表現しきれない想像しえなかった感覚の世界を覗いてしまった、そんな心持にずるずる引きずり込まれていきわたしはサウナにはまることとなる。そんな初水風呂体験記。


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