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信じていたい の事

「おはよう! 2週間以上も閉鎖的な環境で良くがんばってるね」

「君か! もう1ヶ月だぞ。我ながら早いもんだ。カビが生えたんだよ。安部公房じゃないんだから」

「カイワレ大根生えたか笑。シュールな世界を地で生きる現実」

「いつからドエスになったんだい? 喉の奥。まさか口腔外科だから、喉の語源ぐらい知ってるよね? のみと、のんど、のど」

「今日はお蕎麦を食べにみんなと行ったよ!」

「どうしてもわからないのは、なんでここまで苦労して病気を治すんだい? それがみんなそろって俺のがんを治したがっている」

「早く娑婆に戻ってきてね!」

「ありがとう。だから! いつからドSに……」

「急かしてるわけだよ。励ましてるの!」

「蕎麦ぐらい今でも食えるぞ! 急かされても、日程は決まってるのが放射線治療なんだよ。俺が決めたんじゃない日程がまだまだ続くらしいんだ」

「いやいや、みんな待ってるからということ。君を待ってるんだよ」

「だから!!! なんで生きる必要があるのか知りたいだけだ。俺はみんなのためだけに生きてるわけじゃない。がんになったら昔は死んでたのが、死ななくなっただけかもしれないだろう?」

「いやいや、そこのレベルの話じゃなくて。最近うしろむきでとっちらかってきてないか?」

「人間生まれた時から死につつある。というのは子供でもわかる話だ」

「一緒に仲間が楽しくいるだけでそれで良いじゃないか」

「死があるから生きていると相対化できるのは、強いて言えば一神教だ」

「そういうことだね。死ぬまで君は仲間だよ」

「なにかを信じられるっていいなと思うよ。二十代で終わったよね」

「いやいや、信じるって」

「信じたら、人間終わりだぞ。アウトだからな!」

「そんなこともないよ」

「信じられないから生きているという確信はある」

「……信じることも捨てたもんじゃないぞ」

「信じると信じることと信じられると信じたいはまったく別の話だと思うぞ。信じたらゴミ箱だ。信じるというのは、何を? がつきまとわないかい? 神? 無理だ。いちばん信じられないのは、俺だ! だから確信もできる。確信は果てしない虚空。無限大の虚空だから確信できる」

「信じることは二律背反を含んでるということか?」

「いやいや。神は死んだっていうのはニーチェの時代じゃないか? 君は信仰や弁証法で生きられるのかい。僕にはできないとはっきり確信したのが二十歳の頃だったぞ」

「でもそれって19世紀に終わった話じゃなかったっけ?」

「強いて言えば、かなり前から己に飽き飽きはしてはいる。君が言うように、がんになってから、すさんでとっちらかってるのかもしれないな。治療方針は腑に落ちたけど、治療結果はまだ未定だから、信じるか信じないかはもっと後になってからのはずだ。君の話にはいつも腑に落ちているんだよ。まったく意味や脈略や相関などあってもなくても腑に落ちるのはいいぞ! そして思うんだ。何度も何度も何度も思い続けて、死ぬほど思えば、確信できるかもしれないぜ」

「ところで、清野栄一と名乗る作家はは2009年のメールにこう書いているみたいだぞ!」

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 僕は、確かに、多動で気が短い性格ですが、他者に対しての怒りというものを、およそ持たない人間です。ブッシュの戦争や日本社会への憤りはありますが、それは、自己と他者という関係性から来るものではありません。他者に対して、たとえその人が、人殺しをしようが、罪と罰の問題ではあっても、別に善悪の問題ではないとし、そこに介在する倫理感や論理などというものは、百人いれは百通りがあってしかるべきで、それが人間をひとつの「固体」という存在にならしめていると考えます。だから、仕事や日常で、誰かのせいで自分に不利益になるようなことや、他者に対してムカつくようなことがあったとしても、あの人はそういう人なんだなと思うだけで、いい加減にしてくれよとは思うだろうけれど、怒りという感情はありません。冷めているというわけではなく、他者をほんとうに根本的に真に理解するためには、最後には刺し違えるところまでいくか、たとえ自分が殺されても愛し続けるしかない、でもそこまではなかなかたどり着けない、という現実があるわけです。ほんとうの怒りや憎しみというのは、もっと別なものです。そして、子供の頃は大人になればいろいろなことがわかって、世の中も自分ももっと完全な個体になっていくのだと思っていたのに、事実はまったくその逆で、人間はカラダもココロも壊れていくしかない生きもので、それを経済力や経験や家庭や友達や、いろいろなことで補ってはいるのだけれど、一度壊れたものは、違う場所へ行けることはあっても、二度と元になど戻らないという実感ばかりが込みあげてくる。つまり人間は、なしくずしの死を生きているにほかならず、自分が死んでも世界のほうはもうしばらく長続きするなんて、死者に魂があるのなら、とんでもないことだ。とにかく、それが死であるのなら、己の存在がなくなってしまえば、他者への理解も、こことは違うどこかもあり得ないのだから、生き続けるしかない。そして、文学なんてものは、やっとその荒涼とした地平からはじまるもので、だからこそ普遍性を持った作品を書くことだってできるのだと思うわけです。それは、人という生きものへのかすかな望みです。人は一度滅びなければ、救われることなど絶対にあり得ない。でも滅びてしまえば救いもない。ならば生き続けることでしか、他者と駆け引きなしにまっすぐ向き合い、愛することでしか、どこかにあるかもしれない、もうひとつの地平など、見えるはずもないと思います。僕はまだなにかを信じていたいのです。
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「これって彼がすごいパーティーやってた頃かい?」

「いや、終わりかけてた頃じゃないかな? だから、はじまるんだよ。今から抗癌剤だ」

「二回目か?」

「何かを信じられるのは幸せだと思うぞ。なかなかできないからな。信じるためには信じられないのをぜんぶ捨てるんだ。そして引き受けるんだ。全面的に。僕にはまだ欲や未練ややりたいことがある。彼も書いているじゃないか。

まだなにかを信じていたい。

今の「彼」ならどう答えるのかな? 2009年の「彼」と今日の「彼」が同じとは思えないから。
僕もおおむね彼には同感だったが、今はもちろん若干ぐらいは違ってきてるはずだ。
話があっちこっちブレすぎていることぐらいはわかっているよ。
君はあれから何年たったと思ってるんだい?
彼にとっても同じだろうけど、こればかりは確信できないからな。
日本語で書いてみることにするよ。
痛いということは、まだ生きているはずだからね」

「君が書いていたけど、生きている実感、朝陽を浴びて。あれは、ものすごい生きている実感だったぞ!」

「実は、昨日も廊下で踊っていたんだ。「SPIRITUAL HEALING」をつくったJUANとチャットしながら「SPIRITUAL HEALING」で踊っていたんだよ。ものすごかったぞ!」

(リンク入る)

「やっとはじまったぞ!」

「何が?」

「永遠か?」

「ランボーか?」

「二回目の抗癌剤だ!」

「訳者によっていろいろで、堀口から小林から中原から粟津までいっぱい訳があるよね。ソレイユに溶けるラメールだったか。ラメールに溶けるソレイユだったか……君ならフランス語で読めるはずだから。じゃあ行ってくるよ」

「bon voyage」

「おはよう! シドニーに着いたよ!」


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