見出し画像

人生の選択は案外簡単だよ。

わたしのこれまでの人生は簡単だった。
迷うことがあまりなかった。
なぜならわたしにははっきりと好きなものがあった。
興味があるものがあった。

ぶどう味の飴ばかり好んで食べ、みかん味の飴を残していたこどものころのまま、私は育った。

わがまま、とはまた違うけど、わがままと言われたらそこまでかもしれない。ただ、大人になった今でもわたしの物差しは、単純だった。

好きか嫌いか。

だからローランドの

世の中には2種類の男しかいない。俺か、俺以外か

を聞いた時、鼻で笑っていた友人の傍で、わたしは黙ってローランドと共鳴するものがあることに気がついた。

世の中には2種類のものごとしかない。わたしが好きなものか嫌いなもの

好きだからやる。嫌いだからやらない。これほど単純な思考回路は無いと思う。それくらいわたしの脳みそは簡単にできていた。

ここまで聞いて、そんな好きなことだけやる気ままな人生、楽してんじゃねえよ、と言う人がいるかもしれない。
そう思う人は、なにかを勘違いしているのかもしれない。もしくは、本当に好きなものにまだ出会えていないのかなと少し可哀想に思えるほどだ。

ここで、一つはっきりさせておく必要があることは、
好きは楽ではないということ。
好きなことをやるというのは、やりたいことだけやる、楽なことだけやるとは違うということを覚えて欲しい。
決してやりたいことだけやる、楽なことだけやる選択肢を選ぶ生き方を否定しているのではなく、それとは違うんだということを言いたい。(そもそも、本当に楽なことがあるのかは今討論しないこととしよう。)

わたしの好きは、楽しかった、でも決して楽ではなかった、むしろ楽とは真反対に位置していた。精神を、肉体を、時には命を削ってやってると自覚することもしばしばあった。
けれども、わたしはそれが好きだった。自分がMだと言っているのではない。大変さを楽しんでいるというわけではない。あくまでも、好きだからこそ、大変でも苦しくてもできるということ。
寝る間を惜しんでまで、やりたいと思えた。やりたくないことでも、やれた。やればやるほど、はまっていった。嫌だという感情はあっても、やめるという概念はなかった。

好きが、いつもわたしの原点であり、わたしの原動力でもあった。

好きこそものの上手なれ

このことわざは、実に芯をついていると思う。

小学生の時はこのことわざの意味をあまり知らなかった。というか、もしかしたら小学生の時は好きを履き違えていたのかもしれない。
その頃は得意なものが、
得意な教科が好きだった。
苦手な教科は嫌いだった。

算数や走ることは得意だったから好きだった。
国語は苦手だから嫌いだった。
水泳も、図工も下手くそだったから嫌いだった。

好きな科目を聞かれると、得意な科目を答えて、
嫌いな科目を聞かれると、苦手な教科を答えた。

歳を重ねるにつれて、この仕分け方は間違ってはないけど、正しくはないことに気がついた。

高校生にもなったら、数学はどんどん難しくなって、得意科目とは言えなくなったけど、それでも好きだった。走ることは相変わらず得意だけど、好きではないことに気がついた。本を読むようになって、国語は得意になったし、好きになった。絵を描くのは上手くないけど、表現できることが楽しくて、必死に絵を描いた。今も上手には描けないけど、好きになった。水泳は人並みに上達したけど、いつまでも苦手のままで、嫌いだった。

好き・嫌いは能力に左右されない

よく考えたら、得意でないと好きであってはならないのなら、なんと狭い世の中なんだろうなぁと、実はすごく当たり前なだということがわかった。

得意でなくても胸を張って好きと言える世の中でよかったとつくづく思った。

とすると、好きこそ物の上手なれはやはり、真理ではないのかと続けて考えたが、いやいや、待て待て、いま能力を軸にして、感情を考えているなあ。好きこそ物の上手なれは、感情を軸にして能力をみている。(軸を間違えることはよくあることだ、間違えたのなら直せばいい。時を戻そう、いや、軸を戻そう。ぺこぱは天才だと思う。)

よし、時を戻そう。

好きこそものの上手なれ、本当に好きなら上手になれるのか。
答えは、まちまちかもしれない。
けれども言えるのは、
好きは楽しい
好きは続けたい
ということ。
そしてそれは、何にもまさる、最強のアイテムだと思う。その最強のアイテムを持っていれば、ゲームをクリアをすることができる。しかもそのアイテムは好きである限り、なくなることがないと言うのだ。向かうところ敵なし。
それがわたしの人生の攻略アイテムなのかもしれない。

好き嫌いで、ものごとを判断するなんて、子どもくさくて、青くさくて、ださいかもしれない。半人前かもしれない。
けれども、そんな子どものころから備わっている本能的な決断方法をわたしは生涯を通して大切にしていきたい。

少なくとも、今は「好き・嫌いでものごとを決めること」がわたしは好きだ。
いつの日か、そうやって決断することが嫌いになったら、やめたらいい。その時にまたきっと好きなことが出てくる。

そう長くない人生で、本能的に生きることが大切なのかもしれない。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?