今村夏子『むらさきのスカートの女』
第161回芥川賞受賞作。初めての今村夏子さんです。オビには、
とありますが、実際の〈わたし(自称:黄色いカーディガンの女)〉の行動は、観察レベルを超えていて、完全なるストーカーと言えるほどの不気味な執着のみを示していきます。
冒頭から「むらさきのスカートの女」は、行動も姿も世の中に適応しづらい女性の典型ように語られていくのですが、〈わたし〉が彼女に近づけば近づくほど、「むらさきのスカートの女」が、〈わたし〉の認識とは違った現実社会で普通に生きられる(生きている)女であることが浮かび上がってきます。むしろ、〈わたし〉の異常性の方が際立ってきて、読者はゾワゾワさせられます。
そして、執拗なストーキングにも関わらず、不思議なことに、〈わたし〉が「むらさきのスカートの女」に気づかれることは全くありません。この辺から、読者は、もしかして二人は同一人物なのではないか……なんてことも考えながら読んでいくことになります。しかし、物語を追っていくと、やはり作者は二人を別人として設定しているようです。最終的な物語の展開、そして、集約点を思う時、この話は、社会的に認知されにくい〈わたし〉が、「黄色いカーディガンの女」として社会に存在するようになる話だったのだなと思いました。
〈わたし〉の思い込んでいた「むらさきのスカートの女」とは、「黄色いカーディガンの女」になりたい〈わたし〉が思い描いていた理想像であって、これから〈わたし〉はやっとなりたい「黄色いカーディガンの女」になっていくのでしょう。それは、社会的に好ましい存在とはいいがたいものなのかもしれませんが、〈わたし〉にとっては唯一の社会に色をもった人間として存在できる術なのかもしれません。そう思うと、表紙のイラストは「むらさきのスカートの女」を通して変化する彼女を象徴しているようで、またゾワゾワがこみあげてきました。ドット柄の布の下には、かなしくもいじらしい人間が隠されているようです。