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中勘助『銀の匙』

この記事は、日本俳句教育研究会のJUGEMブログ(2023.03.12 Sunday)に掲載された内容を転載しています。by 事務局長・八塚秀美
参照元:http://info.e-nhkk.net/

灘校で『銀の匙』を使って伝説の授業が行われていた、ということを知った時からずっと読んでみたいと思っていた作品でした。文庫本『銀の匙』だけを3年間かけて読むという授業の詳細は、多くの書籍になっているようですし、授業者である橋本武先生のインタビューも、まだネット上に残っています。

伝説の98歳灘校教師が教科書の代わりに『銀の匙』選んだ理由

文庫の裏表紙には次のように紹介されています。

書斎の本箱に昔からしまってあるひとつの小箱。その中に、珍しい形の銀の小匙があることを私は忘れたことはない。その小匙は、小さな私のために伯母が特別に探してきてくれたものだった。(略)明治時代の東京の下町を舞台に、成長していく少年の日々を描いた自伝的小説。夏目漱石が「きれいだ、描写が細く、独創がある」と称賛した珠玉の名作。

小説は、病身で知恵の発達も遅れて臆病であった幼時から、体力も増して成績も伸びていった少年時代、そして苦悩の多い早熟な十七歳までの主人公の回想となっています。タイトルともなった「銀の匙」は、母の代わりに無償の愛で育ってくれた伯母の象徴なのですが、伯母以外にも、初めての友達となったお国さん、ほのかな恋心を抱くこととなるお蕙ちゃん、子供らしい時間を与えてくれた貞ちゃん、そして、美しい友達の姉様という女性たちとのほのかな触れ合いと別れが描かれていきます。

伯母がなくなったという事実が示された後、ラストに登場した友人の姉様との別れの場面がとにかく甘美でした。物語は、友人の別荘に一人で滞在中に、友人の姉様が嫁ぎ先から偶然に立ち寄り、幾日か同じ屋根の下で暮らすことになりながら、なるべく顔をあわせず過ごし、最後に別れの挨拶をしないままに、彼女のくれた水蜜を掌にのせながら、涙を流す場面で締めくくられます。

俥のひびきが遠ざかって門のしまる音がした。私は花にかくれてとめどもなく流れる涙をふいた。私はなぜなんとかいわなかったろう。どうしてひと言挨拶をしなかったろう。(略)そうして力なく机に両方のひじをついて、頬のようにほのかに赤らみ、腭のようにふくらかにくびれた水蜜を手のひらにそうっとつつむように唇にあてて、その濃やかなはだをとおしてもれだす甘いにおいをかぎながらまた新たなる涙を流した。

母的存在の加護を受けつつ、悔しさも経験しながら徐々に力をつけ、自分の信念を身につけながら独り立ちしていく主人公。そんな確かな成長の中で、行動はできないまでも美しい女性の存在に心を動かすまでのこの物語を、中学校三年間で男子校の生徒たちがどのように読んでいたのか、とても興味をひかれました。授業に関する書籍も手に取ってみたくなりました。