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松浦寿輝『花腐し』

11月10日公開、綾野剛×柄本佑×新井晴彦監督の映画『花腐し』の原作が、第123回芥川賞受賞作だと知って手に取りました。映画のHPに、

芥川賞受賞作「花腐し」を荒井晴彦が大胆に脚色
ふたりの男とひとりの女が織りなす切なくも純粋な愛の物語

映画『花腐し』公式サイト

とあった通り、映画のあらすじとは(職業も、相関関係も)登場人物たちの設定となっていて、映画とは別物として読んでいくこととなりました。

降り続く雨を背景に、生きることにまつわる欲望に淡白な栩谷の「俺もどうやら腐りかけてきたか」との想念が底辺で鳴り続けているような小説でした。タイトル「花腐し」は、小説の中では以下のように登場します。

「卯の花腐し……」と呟いた。
「何?」
「ウツギの花を腐らせるってね。さみだれっていうか、今日みたいな雨のことを言うんだろう。春されば卯の花腐し……って、万葉集にさ」

「卯の花腐し」は、「卯の花の咲いている頃に降りつづく長雨」をいう季語であり、私には馴染みのあるものではありましたが、季語のニュアンス以上に、心象的に用いられたタイトルだと感じました。

自らのデザイン事務所の倒産を目の前にして、全てをなくした栩谷。その彼が雨の記憶と結び付けて思い出すのは、十年以上前に亡くなった同棲相手の祥子です。彼女の死は事故ではなく、自分の冷たさが二人の関係を腐らせた結果もたらした自殺だったのではないかと考え始める栩谷。『花腐し』は、彼が祥子の死と自らの現実を受け止めていく物語であるように感じました。

その栩谷に必要な言葉を与えていく存在が井関です。井関は、「卯の花腐し」以外にも、世間から転げ落ちて空っぽになって時に初めて「この世の花」が見えると話します。

「この世の花。それをいとおしむ気持ちってものがね。初めて湧くの。空っぽをどう愉しむか、虚空を踏みながらどうやって面白くいきるのかっていう、せめてものケアーだよ。こころくばりだよ」(略)
「生き死になんざどうでもいいって、さっきあんた言ったろ」
「どうでもよくなって、それでもまだ生きる。業だよ」

ずっと降り続けていた「花腐し」がやんだ後、壊れかけのアパートの踊り場の鏡に映る祥子を描くラストが印象的で、様々な解釈が残された作品だと感じました。

物語に繰り返し登場した階段の踊り場は、栩谷にとって次のように感じさせるものでした。

自分自身の未来の幽霊とでもふっとすれ違いそうな、宙に浮いた、何とも中途半端な妙ちきりんな場所ではある。

雨上がりの街にでようと階段を下りていた栩谷は、踊り場の鏡に「階段を軋ませる軽い足音もかすかに響き背後を遠ざかってゆく」祥子の姿を見るのです。そして、二階へ消える祥子の後を追おうとして、栩谷が下りてきたばかりの階段にもう一度足を掛けるところで物語は終わります。

とろとろに溶けて土に染みこんでいった祥子の魂は今になってさみしくてたまらずおずおずと栩谷を呼んでいるのだろうか。祥子の入水を事実として受け入れても栩谷にはもう失うものは何もなかった。(略)祥子はいつでも俺を赦してくれたなと栩谷は記憶の中に改めて身を泳がせ、鏡の奥に眼を凝らしながら、ここ十数年というもの、俺は今この瞬間を、この瞬間だけを待ち続けていたのかもしれないとふと思った。

栩谷が最後に見た祥子は、踊り場の見せた「自分自身の未来の幽霊」だったのでしょうか。いや、全てを腐らせる鬱々とした雨の時期は終わったのです。井関の言っていた「それでもまだ生き」ていこうとする人間の「業」が見せる「この世の花」として読みたいと思いました。(八塚秀美)