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父とのランチは罰ゲーム

コロナのせいでさんざんな目に遭った人、コロナのおかげで豊かな時間が増えた人、あなたはどちらだろう? 私はありがたいことに、ほぼ後者だ。
好きな書きものをする時間が増え、寝食の時間帯の自由度が上がって、快適な毎日を過ごしている。気軽に外食を楽しめないこと以外は。

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供給過多のパパ活市場

新型コロナウイルス感染防止対策の影響が大きい、いわゆる夜の街。
多くの店や施設が休業要請に伴って営業自粛をする中、水商売で働いていた女性たちの多くは収入の激減で生活が困窮し、パパ活を始める女性も増えているそうだ。
その結果、パパ活市場では女性が「供給過多」状態となり、競争が激化しているという。

パパ活とは、経済的に余裕のある年上の男性と一緒の食事やデートをする対価として、金銭を受け取る活動のこと。

「お手当」の相場は、お茶or食事1回につき0.5万~1万円。
性的関係を前提としないのが原則だが、実態はそうでもないのだとか。大人の関係の場合は、1回2万~5万円と幅があるらしい。

女性側の切実なニーズはともかくとして、食事をご馳走してお手当てを払ってまで、娘のような若い女性とひと時を過ごしたいという男性は、金銭的に余裕があっても満たされていない何かがあるのだろうか。

確かに、「近頃の若い世代は、飲み会への参加を嫌がる人が多い」と聞くようになって久しい。奥さんや娘さんとの仲が良くないオジサンたちは、下心がなくてもただただ寂しいのかもしれない。

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私のパパ活懺悔!?

実は、私には数年前までは、2年に1度くらいの割合で、食事や温泉に連れて行ってくれるオジさまがいた。
といっても、「お手当」など存在しない。もちろん、ややこしい関係など一切なし。だから、世間が言うところのパパ活ではない。
このオジさまは、20年ほど前に勤務していたクリニックの元同僚で、本当に父ほどの年齢の人。年の離れた元同僚、ただそれだけ。

クリニックを辞めて数年のうちは、元同僚の女子数人と一緒に、カニ料理や会席料理の店へよく連れて行ってもらった。
皆で集まることが無くなってからも、個人的に困ったことがあったら、電話一本で駆けつけて手を貸してくれる、本当に親切なオジさま。
ここ何年かは、お孫さんの世話で忙しいらしく、荷物の運搬は何度も手伝ってもらったけど、落ち着いて食事に行くことはない。

「美味しいものをご馳走してくれるけど、楽しくない人」と一緒に過ごすのは苦痛だ。バブル時代の「メッシー」くん的な人に、割り切ってご馳走にだけなるという人の気がしれない。

「何を食べるかよりも、誰と食べるかが大事」

だという考え方は、とてもよくわかる。
豪華なご馳走でなくても、一緒にいて楽しい人と食べるのがいいに決まっている。ただ、私はかなり食い意地が張っているので、何を食べるかも結構重視する。

私の食い意地が張っているのは、父方のDNAのせいだ。
父は食べること、飲むことがとにかく好きで、外食が大好きだった。
でも、私は父と食事に出かけるのは、好きではなかった。

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比叡山頂のフレンチレストランで

「罰ゲームみたいやわ」

学生時代のある日のこと。
父から、比叡山の山頂にある「ロテル・ド・比叡」のフレンチレストラン「ロワゾ・ブルー」でのランチに誘われた時、私が言い放った一言だ。

父は相当ショックだったのだろう。
「罰ゲーム」という言葉を何度か繰り返し、「ひどいこと言うなぁ」と苦笑しながら、ぼそっと呟いた。
そして、帰宅後、母に

「今日、●●(私の本名)に “お父さんとランチするのは罰ゲームや” って言われたわ」

とこぼしていた。

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ずっと父が嫌いだった

私は、小学生の頃からずっと、父のことが嫌いだった。
頑固で融通がきかなくて、すぐ頭ごなしに怒るし、何でも数字で物を言う。
何よりも、4歳下の弟ばかり贔屓するところが一番嫌だった。

例えば、弟の誕生日の夕食に、父が仕事で帰りが遅くなった時、遅くなってごめんと、キャラクター柄の大きな枕を買って帰ってきたことがあった。
私の誕生日には、過去にそんなサプライズは一度もなかった。

別に、帰りが遅かったことを責めたかったわけでも、何かプレゼントが欲しかったわけでもない。ただ、弟の誕生日にだけお詫びのプレゼントがあったという差別的な行為が許せなかった。

「なんで、私の誕生日に遅かった時は、何も買ってこーへんのに、マー(弟の愛称)には買ってくるん?」

と父に詰め寄った。

父は、その年の私の誕生日に、初めてハンカチを1枚買ってきた。
いかにも京都駅構内の売店で買ったと思われる、京都みやげっぽい和柄のハンカチは、小学生の私が喜ぶようなプレゼントではなかった。
父が私の喜びそうなものを全然わかっていないことに、私はまた深く傷つき、イラだった。

それから数年後のある夜、父と母が弟の中学受験について話している声が聞こえてきた。
文武両道の弟を、父は私立の進学校に行かせたいと考えていたらしい。
決して裕福ではなかった我が家は、子供部屋も両親の寝室もなく、布団に入った後も眠りにつくまではテレビの音も、話し声も聞こえてしまう環境だった。

「●●も私立に行きたいって言ったら、そんなお金どこにあるの?」

母の質問に父が何と答えるのか、私は息を飲んで、耳を澄ました。

「そら、二人は無理や。●●は公立や」

「それは、ちょっと不公平なんと違う?」

母の問いに、父は何が不公平なのか意味が分からないというように、

「なんでや?」

と訊き返していた。

その後、父と母が話していた内容をハッキリとは思い出せない。
布団の中で、声を上げずに泣いた。涙が止まらなかった。

当時、私は中1で、徒歩10秒の、公立中学校に通っていた。
公立高校のⅡ類(特進コース)に進むつもりだった。
しかし、父のあの一言を聞いた夜以来、私は父への復讐のため、何が何でも私立へ進学してやる、公立へなんか絶対に行くもんかと心に決めた。
そして、望み通りに私立高校に進学した。
滑り止めで受けていた第3希望だったが、私は満足だった。

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父への復讐

私が入学した高校は、関西の私学の中でも特に授業料が高いことで有名だった。
大学へはエスカレーター式に内部進学したのだが、何かにつけて父は、授業料を盾にして、私を脅すようなことばかり言うようになった。

中高一貫の有名進学校へ進んだ弟は、一浪して京都大学経済学部に入学した。父は入学と同時に4年間の学費として、約400万円を現金一括で弟に渡した。このお金を増やすも減らすも自分次第だから、いろいろチャレンジするようにと。
何なんだ、この扱いの違いは。
どこまで行っても父のすることには腹が立ち、私は傷つくことばかりだった。

弟は、父が一括で渡した現金を使い込んでギャンブルにのめりこみ、道を踏み外した。家出や自殺未遂までした。
休学を繰り返した末に、8年分の授業料を払ってもらったにもかかわらず、卒業できずに中退した。
私は弟に何をしたわけでもないが、父への復讐が成功したように思えた。

父は、2000年秋に骨髄の難病が発覚し、余命宣告を受けた。
壮絶な闘病生活の後、一度は命拾いをしたものの、2006年秋に再発し、2007年お正月に還らぬ人となった。
趣味らしい趣味もなく、仕事が生きがいだった父。
とにかくよく飲みよく食べる人で、外食が大好きだった。脱サラ後、事業が軌道に乗ってからは、結構贅沢もさせてもらった。

30代の頃、友人に誘われて回転寿司の店に行った私は、システムがよくわからず困惑した。お皿の上に乗ったお寿司が回ってくることくらいはわかるが、それ以上の細かい仕様に関しては、行ったことが無いのでわからない旨を伝えると、友人からとても嫌な顔をされたことを、今でもよく覚えている。

父とフレンチレストランでランチをすることが、なぜ私にとっては罰ゲームとしか思えなかったのか。
それは、父とは会話が弾まないからということに尽きる。
例えば、父は私が連れてきた友人に、まるで警官の尋問のような口調で話しかけたり、悪気なく空気をぶち壊してくることがしょっちゅうあった。
話していても楽しくないのだ。

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極上のご褒美タイムは誰と?

「ロテル・ド・比叡」は、2015年7月にリブランドされ「星野リゾート ロテル・ド・比叡」となっていた時期があったが、2020年3月末で撤退。2020年4月より、ホテル京阪による運営に変わった。レストランでの食事はディナー限定で、ランチは屋外でのBBQのみになっている。

もう父はこの世にいない。
罰ゲームみたいだと言ったことを詫びることもできない。

新型コロナウイルスの感染拡大「第2波到来」を警戒する今はまだ、心から外食を楽しむ気分には、なかなかなれないけれど。

もし、もう一度、あのレストランで食事をする機会に恵まれるなら、私は誰と来るだろう。
親友か、恋人か、それとも母か。少なくとも、パパ活でないことは確かだ。
いずれにしても、その時は最高に楽しい会話で、極上のご褒美タイムを過ごしたいと思う。

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