華の種子ごっこ


 私は書斎で本に埋もれていた。茶色く艶々した床張りのそこに四肢を投げ出して。かび臭いにおいと埃っぽさと紙に染み込んだたくさんの想いたちが私をぐうっと包んでいて、それはそれでありなのかもしれないけれど、すこしだけ視界は霞みがかっているように感じた。電気のついていない薄暗く狭いこの洋間が最後に窓をあけられたのはいつだったっけとふと思考を巡らせる。ぼんやりと卓上のすずらん型のランプに目を留め、それから視線を灰褐色をしていたであろう天井に移す。全体が黄ばんでところどころに染みが浮き出ていた。
 もうずいぶんとこうしている気がする。セーラー服のしわくちゃになったスカーフは解けて胸にかかっていた。いつのときからか時を報せなくなった時計は壁にかれられたまま埃をかぶっていて、この部屋全体が時間も、空気すらも流れていないように思えた。
「みいちゃん、はやくきてよ……」
 ぽつりと喉から声が漏れた。それは私のものだけれど嘘みたいに掠れていた。呼びなれた彼女を懐かしく思い返しながらもう一度みいちゃん、と呼ぼうとしたとき、私の胸には言いようのない苦しさが溢れる。
 とその時、がちゃりと扉が開いた。閉め切られていたはずの部屋に新しい空気がかけぬける。
「かんなちゃん、呼んだ?」
 ずっと待っていた、待ち焦がれた彼女が私を呼んだ。そして「わ、何この部屋。すっごい散らかってる。それに空気入れ換えないと辛いんじゃないかな。ってかんなちゃん泣いてるの、どうしたの」そんな風に言いながら近づいてくる。床に散乱した古本や図鑑や専門書を器用によけながら、私の傍らへやってきて膝をついた。天井を見つめながら視界の端でそれらをとらえていたから、いきなりその半分は色白のみいちゃんに埋め尽くされる。私の様子を呆れた顔で見て、それからくすりと笑ったと思ったら声を出して笑い出した。
「ふふ。かんなちゃん、乱れすぎ」
「み、ちゃん」
 私はなんでここにいるんだっけ。涙で視界がぼやけ始めて、もっと見ていたいのに、肩で切りそろえられた黒髪や黒目がちな瞳やえくぼのできる柔らかい頬は、どんどん、どんどん滲んでゆく。
「泣かないで、ほら。かんなちゃんはわたしの名前を呼ぶたびそんな顔をするんだから。わたしはかんなちゃんって呼ぶのが嬉しくてしょうがないのに」
 ごめんね、という私の言葉は声にはならずに胸元に落ちた。この人は、どうしてこんなに可愛いのだろう。耳にそっと触れたみかこちゃんの手はびっくりするくらい温かいし、心はどういうふうに言ったらいいのかわからないほどに優しさでくるまれている。私はそんな彼女だから好きになったのだ。
 涙がとめどなく耳に落ちてくる。なぜ自分が泣いているのかを忘れてしまいそうになる。苦しくて思い出したくないのに、私はこの笑顔をずっと見ていることはできない。
「みいちゃん」
「ん?」
「すき……」
「わたしもかんなちゃんのこと好きだよ?」
 そう言って、滲んだ視界の中の彼女は笑っていた。幻想の人なのにそれでもこんなに愛しいのだから、本人に会ったらきっと私はそのまぶしさに顔を上げることすらできないかもしれない。私はみいちゃんがどうしようもなく、好きだった。
 ゆっくりと涙を制服の袖でぬぐう。腫れぼったいまぶたを一生懸命開いたそこに、もう彼女の姿はなかった。代わりにそばには白い猫が、本と本の小さなすき間に静かに座っている。水色のリボンと小さな鈴を首につけ、私の方をみてひとつだけ鳴いた。
 体を起こして、自分の服装を見てみた。なるほどこれはひどい。彼女に言われるのも無理はないというくらい。くしゃくしゃのスカーフだけでなく、前のボタンははずれ、靴下を片方履いていなかった。重たく泥水に浸かっていたような頭を揺すってみると、猫がこちらへとやってくる。
 にゃあお。あくびみたいに鳴いて、それが可愛くて鼻をつつく。それからふと周囲を見回して気づいた。窓が、開いている――。
 散らかった本の山。ページがばらばらと夕方の風にあおられてめくれていく。私はいつのまにか高校生のかんなではなく、それを思い出だと思ってしまうくらいの年のかんなになっていた。着ていたはずのセーラー服は、紺のブラウスと膝丈の黒いスカートになり、当時あの子とおそろいだった肩までの髪はもうずっとのびてしまって、今は腰まできていた。あれから切ることができないでいるこの髪はいつまでハサミを拒むのだろう。私には到底わかりっこなかった。
 なぜこの部屋に私はいたか。
 彼女は、高校の卒業式の日の朝、家を出たっきり行方をくらましてしまった。私はその日の朝の彼女を知らないけれど、ある手紙が見つかったのだ。それは家族宛ともうひとつ、私宛に。手紙というより、それはメッセージに近かった。


     †


  かんなちゃんへ

  今日はとても寒い朝になりましたね。あなたは高校へ行ったことと思います
  この手紙を読んでいるころにはもう知っていると思いますが、わたしは今日は学校へ行けません
  なぜなら、卒業式だからです
  高校は、わたしにはかんなちゃんの思い出がいっぱいありすぎて、とても苦しいのです
  でもね、全部が大切な思い出です
  わたしはこの想いをずっと胸においておきたい
  卒業させることはできないのです
  それだけ

  わたしはどこかで生きています
  きっと
  もう会えないですけれど、おばあちゃんになったら、会いに行こうかな?
  勝手だけど、ゆるしてね


                                             みかこ


     †

 この部屋はわたしの家の一階にある部屋だ。いわば秘密基地のような場所だった。ふたりで語るのにちょうどよい広さで、閉め切ってしまえば声は漏れることはない。両親もこの部屋は私にかしてくれていたから、ふたりで遊ぶときは決まってこの部屋だった。そのころはまだ壁掛け時計も時を刻み、窓は閉まってはいたものの綺麗に磨かれ、本はあるべき場所にきちんとおさめられていた。
 手紙があったのは、この部屋の窓辺。卒業式の前日もここへ来ていて、ふたりで思い出を語り合った。そのときにこっそりと置いていったのだろう。どんな気持ちでこの手紙を書き、そして置いていったのか。私は彼女のいない卒業式を、来ていないことを不思議に思いながらも、何も知らずに出席していたのだ。帰宅して知った事実に、すべてを崩した。たくさんの本は棚から落として、私もそこで死んだように眠ることで、彼女のいない悲しみを癒そうと思った。
 それからだ。時折彼女の姿が幻となって現れるようになったのは。そしてそのあとには必ず、白猫が出現する。因果関係があるのかは分からないが、白猫さえも私がひと撫でするとふうっと消えゆく。私は彼女に会いたくなるとここにこもって、幻想を見て猫を撫でる。倒れた本の海にうずくまって、届く相手のいない声を押し殺し、泣く。
 好き、みいちゃんが好き。
 私の声が種子となり、この開いた窓から飛び去って、どこかで根付いたそれに彼女が笑いかけてくれたら、私はもうこの部屋に入ることはないだろう。


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