日本語教師の資格

日本語教師の「公的資格」について考えた

文化庁から「日本語教育能力の判定に関する報告(案)」についての意見募集が行われていました。
文化庁のお知らせページはこちら

締め切りは、12月13日(金)で、すでに意見募集は終了しています。
本当はもっと早くこのテーマについて考えをまとめて発信し、議論の輪を広げようと思っていたのですが、論点がたくさんある上に、時間的な余裕もなくなってしまい、なんだか、まとめきれずにいました。

締め切りが迫ってきたので、パブコメ用の意見をまとめることに専念し、大急ぎで提出しました。遅きに失した感がありますが、せっかく書きかけたので、今回は、パブコメで書ききれなかった部分について、現段階の私の考えをまとめておこうと思います。(と言いつつ、やっぱりまだまとめきれていないような…)

なぜ公的資格が必要なのか?

これまで、「日本語教師」には、公的な資格はなく、日本語教師として認められるためには、大学で日本語教育を専攻するとか、420時間の養成講座を受講するとか、公益財団法人日本国際教育支援協会が実施する「日本語教育能力検定試験」に合格するなどの方法がありました。もちろん、これらの資格がなくても日本語を教えることは可能です。

文化庁が毎年を行っている調査「平成30年度 国内の日本語教育の概要」によると、日本国内の日本語教師の55.4%がボランティアという結果も出ています。常勤講師は、たったの13.6%です。

この調査は、文化庁がアンケートを依頼した国内機関に限られますので、一般企業やフリーランスで教えている日本語教師は、含まれていない可能性もあります。

調査の対象となった教師がどのような資格を持っているのかは、明らかにされていませんが、ボランティアで日本語教育に関わっている人と日本語教師として生計を立てている人が一括りに「日本語教師」とされている実態には、「日本語教師って職業と言えるのかなー」と思ってしまうことも事実です。

また、日本語教師の職務形態だけでなく、質にもかなりばらつきがあると感じています。勉強したいと思っても、日本語教師の養成機関の約3割が、首都圏に集中しており、地方に住んでいる人にとっては、研修の機会を得ること自体が難しいという実態もあります。

私自身、大学では日本語教育が専攻ではなかったし、420時間の養成講座も受けていないという、現場のたたき上げ教師です。(「教育能力検定試験」は合格していましたが…)また、日本語学校で常勤講師として働く傍ら、ボランティアで地域の日本語教室にも関わっていました。大学院に進学しようと決意した時には、それまでの職場を辞め、それまで築いてきた活動の場を離れて、東京に居を移さなければなりませんでした。

私自身を例にとってもわかるように、いろんな背景を持つ、いろんな立場の人が「日本語教師」を名乗っているわけですから、その実態は、かなり多様であることが想像できます。「公的資格」が必要ではないかというのは、流れとしてよく理解できます。

このような背景を前提に、今回の意見募集の対象となる「日本語教育能力の判定に関する報告(案)」(以下「報告案」)には、どんなことが書いていあるのか見てみたいと思います。

「資格創設」によって何を目指すのか

「報告案」の「目的」の部分を読むと以下のように書いてあります。

外国人等に日本語を教える日本語教師の資質・能力を確認し証明するための資格を定めて,日本語教師の質の向上及びその確保を図り,もって国内外の日本語教育を一層推進し,多様な文化を尊重した活力ある共生社会の実現・諸外国との交流の促進及び友好関係の維持発展に寄与することを目的とする。

この部分を読むと、「多様な文化を尊重した活力ある共生社会」「諸外国との交流の促進および友好関係の維持発展」という社会を目指すことを目的として「資格」が創設されようとしているのが読み取れます。

「報告案」の「日本語教師の資格の社会的な位置づけをどのようにすることが適当か」という項目には、

技能実習や特定技能などの外国人労働者が日本社会において力を発揮し,住民と共に地域社会の担い手となっていくためには,日本語の力が重要な鍵となることは言うまでもない。留学生施策においても,高度人材の輩出や就職促進などの成果を上げる上で,日本語教育は重要である。人を育て社会を作る日本語教師には相当の資質・能力が求められる。
資質・能力が証明された公認日本語教師が日本語教育機関や地域の日本語教室,学校, 企業等において活躍することによって,外国人の社会包摂に寄与するものである。

などとも書かれており、資格の創設により、日本語教師が共生社会を作っていくフロントランナーとなり、社会的に意義のある重要な役割を果たすことが期待されていると感じました。

ということは、この日本語教師の公的資格問題は、今後私たちがどのような社会を目指すのかということを同時に考えていくことでもあると思います。単なる「外国人等に日本語を教える」技術を保証するための資格ではないことを謳っているように読み取れます。

では、日本語教師の「公的資格」では、どんな専門性が認定されるのでしょうか。この「公的資格」が意味する「日本語教師の質」とは何を指すのでしょうか。

質と量の両方を同時に確保できるのか

「報告案」には、「日本語教師の質の確保」「日本語教師の量の確保」を同時に目指すことが書かれています。しかし、この「質」と「量」を同時に確保するということは可能なのでしょうか。「質」を考えるにあたり、まず、この点から考えてみたいと思います。

結論からいうと、私は、「公的資格」は、最低限必要な知識、技能に限定して認定するもので、「日本語教師としてスタートラインに立つ」という位置付けのものにならざるを得ないのではないかと思っています。つまり、公的資格では「量」の確保を目的とし、「質」については、別の枠組みが必要なのではないかと思います。各個人が持つ特性に合わせて、多様なキャリアが積めるように、まず入り口を作るというイメージです。

他の国家資格と違い、日本語教師という仕事の活躍の場は多岐にわたっています。日本語を母語としない、日本語を必要とする人がいるところすべてに、活躍の場があると考えられます。同時に、共生社会を目指すという資格創設の目的を考えるならば、外国人の教育ばかりでなく、受け入れる側の教育も必要であると思います。

この辺を、参考資料3「日本語教師の日本語教育能力の判定に関する基本的な考え方」に挙げられている、「専門家としての日本語教師の活動の場」を例として、具体的に考えてみます。

上記、資料には、具体的な場として下記が挙げられています。

・法務省が告示をもって定める日本語教育機関の日本語教員
・地域の日本語教室の日本語教師や,国際交流協会等における地域日本語教育コーディネーター
・大学等の日本語教育プログラムを担当する日本語教師
・企業における日本語研修担当者
・学校における日本語指導員
・海外の大学,日本語学校又は企業等における日本語教師
・外国人と関わる日本人に対する異文化理解やコミュニケーション研修の担当者

これだけみても、日本語教師の活躍の場は、かなり多岐にわたっています。

このうちの「日本語教育機関」で働こうとしたら、法務省の告示で細かく条件が定められていますし、「大学」については、募集時に各大学で明確な条件が提示されています。「地域日本語教育コーディネーター」については、文化庁で研修が行われています。「海外」については、ざっくりしすぎていて焦点が定まらないので、ここでは深掘りしませんが、国際交流基金やJICAが入り口になっていることが多いです。

つまり、これらの機関で働く「日本語教師」は割と入り口もキャリアプランも明確になっており、アクセスしやすいのではないかと思います。むしろ、今後、日本語教師が必要とされるのは、

・企業における日本語研修担当者
・学校における日本語指導員
・外国人と関わる日本人に対する異文化理解やコミュニケーション研修の担当者

あたりではないかと思います。「特定技能」の創設や、「外国につながる子どもの日本語教育」、「やさしい日本語」の活用など、最近話題にもなっていますが、そこに関わるための入り口やキャリアプランは、あまり見えてきません。しかし、先の公的資格創設の「目的」と照らし合わせても、今後、これらの場で活躍する日本語教師が重要な役割を果たすことが予想されます。そのためには、まず、日本語教育の身分を保証し、間口を広げるための「公的資格」にし、それぞれの分野でしっかりキャリアが積めるようにしていくように制度設計をする必要があるのではないかと思います。

しかし、これだけ多様な現場で働く日本語教師は、どのように「質」を高め、キャリアを積んでいけばいいのでしょうか。そこで、次に研修について考えてみます。

今後どんな養成・研修が必要とされるのか

養成・研修については、「文化審議会国語分科会」でも、審議が行われ、下記のような報告書が出されています。
日本語教育人材の養成・研修のあり方について(報告)」平成30年3月2日

これはこれでまた、論点がたくさんあるため、この点について書き出したら、収拾がつかなくなりそうです。が、簡単にまとめると、多様な場での多様な働き方を一つの枠組みで養成しようとするのは無理があるのではと思っています。

上記の「養成・研修のあり方について」によると、日本語教育人材として養成されるのは、「日本語教師」と「日本語教育コーディネーター」とされています。しかし、先に挙げたような「企業」や「学校教育」で必要な人材は、この養成の枠組みには、馴染まないように思います。

例えば、企業での日本語教育といっても、その対象者は、高度人材、特定技能、技能実習生など、それぞれが置かれる立場は異なります。その対象者が所属する企業も様々です。日本語教師には、それぞれの現場に即したプログラムを作成し、企業やそこで働く従業員、また、様々な団体を巻き込みながら現場をコーディネートしていく力が求められます。

このような場で活躍できる人物は、「教師」から想起される人物とは、かなり異なる人物像がイメージされます。また、そういう人物でなければ、企業組織で働く人々と対等に場を構築していくことは難しいのはないと思います。

このような多様な現場を抱える日本語教育では、研修も多様であるべきです。「この人であれば、高い契約料を払ってもいい」と思えるような日本語教育の専門性は、教育機関よりも、社会生活における様々な経験の中で培われるのではないかと思っています。

そして、このような多様な現場で働く日本語教師は、日本語教育の現場からは育ちにくいようにも感じています。介護福祉士の資格を持った日本語教師とか、プログラミングができる日本語教師とか、キャリアアドバイザーとしての日本語教師、防災の知識を持った日本語教師とかがいたら、活躍の場が広がりそうです。が、日本語教育の世界に留まっていては、これらの現場を知ることはできません。

一方で、「学校教育」に関わる日本語教師は、「教育」に関する理解が必要になると思います。教科教育と日本語教育(もっと広く「言語教育」と捉えることもできるかもしれません)を融合させてカリキュラムを練っていくことも必要になると思います。個人的な意見としては、日本語指導員という立場でなく、教職が与えられ、「日本語教員」(または、「言語教育教員」)として、活躍できるようにすることも必要ではないかと思っています。

また、「学校教育」の分野で活躍できるのは、「教員」という立場だけではありません。スクールカウンセラーとしての日本語教師や、親と学校をつないだり、不就学の問題に対応したりするソーシャルワーカー的な日本語教師という人材も必要になるでしょう。これらもまた、日本語教師が活躍できる場の一つと考えると、こちらも多様なあり方を考えていかなければならないと思います。

このような多様な場で活躍する日本語教師を、現在、検討されている養成・研修の枠組みだけで育成しようとするのは無理があるように感じています。

日本語教師のこれから

「報告書」によると、資格の有効期限は、10年とあります。今から10年後というと、2030年です。このころには、おそらく高精度な翻訳が可能となるAIが開発されることが予想されます。また、学習方法も多様化し、個別学習が今よりもっと一般的になるのではないかと思います。従来の教室で行われる一斉授業は、よほどの付加価値がない限り、存続するのは難しくなるでしょう。

このように将来を見据えて養成・研修のあり方を考えると、教室での一斉授業を前提とした養成や教育実習は、日本語教師のあり方を固定化するものとなり、むしろ、多様なキャリアを築くことを阻害してしまう恐れもあります。

おそらく、日本語教師を量的に確保しなければならないのは、「労働力を外国人材に頼りましょう」と方向転換がされた「今」に対応するための政策であって、将来を見据えた政策になっているのか疑問を感じます。これから日本語教師としてキャリアを積んでいくのであれば、多様なキャリアや生き方を、個々の日本語教師自身が考えていく必要があると思います。資格ができたから、「身分が保証される、待遇も保証される、良かったー」という話ではないと思っています。

そういう意味で、10年という有効期限は、妥当ではないかと思います。今のような枠組みで養成された日本語教師が活躍できるのは、せいぜい10年ではないかと思うからです。

では、今後、日本語教師はどのようになっていくのでしょうか?
やはり、はじめに戻りますが、今後どのような社会を目指すのか、そのために日本語教師は何ができるのかを考えて、自ら行動していくことが必要なのではないかと思います。日本語教育の世界だけを見ていては、視野は広がりません。

これからは、日本語教師に限らず、全ての人の働き方自体が多様化していくと思います。10年後にどんな職業が存在しているのかすら、不透明な世界です。しかし、そのような時代にあっても、私は、日本語教師が持つ専門性が武器になるのではないかと思っています。

その専門性とは何か?
実のところ、まだ、はっきりと言語化できていませんが、私たち、日本語教師が持つ「言語」に対する造詣(文法などの言語知識とかではなく)は、今後の社会に必要だろうと感じています。

そして「日本語教師って必要だよね」と言われるような存在にならなければ、せっかく、日本語教師の公的な資格を作っても、資格が形骸化してしまうと思っています。

なんか最後は、大風呂敷を広げたような結論になってしまいましたが、これから、どんな働き方ができるのかなんて、誰にもわからない時代です。そんな時に、日本語教師はどうあるべきかは、かなり難しい問いであり、正直言って、これから日本語教育に関わる者自らが、自分の立ち位置を考えていくしかないんじゃないかと思っています。

私自身も、日本語教師の新しい働き方が提案できたらなーと思っています。


以上、「日本語教師の公的資格」のあり方から考えたことをまとめました。
今回も、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!