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ボブ・マーリーと日本語教育〜衝動駆動のキャリア論

先日、映画「ボブ・マーリー:ONE LOVE」を見てきました。

これまで、ずっと閉じっぱなしにしていたドアを、久しぶりに全開にした、そんな感覚を得ました。

低音がずしんと腹に響くあの映画館の音響で、ボブ・マーリーが聴けるのは、それだけでテンションが上がります。

今回は、ふつふつと湧いてくるいろんな感情が冷めないうちに、ボブ・マーリーから出発した私のキャリアについて(なんじゃそりゃ)語ってみたいと思います。


日本語教育との出会い

私がボブ・マーリーと出会ったのは、はるか昔、大学生の頃だったでしょうか。「I Shot The Sheriff」を聴いて衝撃を受け、ボブ・マーリー→レゲエにどっぷりとハマってしまいました。当時、レゲエが流行っていたので、その影響もあるかもしれません。夏は、野外フェスに行きまくっていました。

当時、日本語教育の世界に自分が関わることになるとは、全く想像していませんでした。新卒で就職した会社は、印刷会社でした。

CDやレコードのジャケットを印刷している会社でしたので、レコード会社が主な取引先でした。取引先の一つに、当時レゲエのレーベルを中心に扱っている会社もありました。私は、演歌担当(別会社)だったのですが、そのレゲエの会社に行きたくて、何かと用事を引き受けて、担当でもないのに出入りしていました。

そんなある日、その会社の人から手渡されたチラシが私の人生を変えました。そのチラシには、

ジャマイカで日本語を教えてみませんか?

と書かれていました。

「おー、こんな方法があったのか!これで、合法的にジャマイカに移住できるではないか」と、大変不純な動機で日本語教師に興味を持ちました。

それから、どうやったら日本語教師になれるのか、いろいろ調べたところ(当時は、インターネットで簡単に検索できるような時代ではなかった)、アルクという会社で、日本語教師になりたい人のためのセミナーがあることを知りました。

速攻申し込みをし、頭の中は、ジャマイカで日本語を教えている自分の姿を夢想しながら、セミナーに参加しました。

春原先生との出会い

このセミナーの講師が、春原憲一郎先生でした。

春原先生は、本当に楽しそうに、日本語教師の仕事について語っていました。その後、春原先生の授業を学習者として体験するというワークショップにも参加しました。簡単なスワヒリ語の数字を覚えたり、無音動画を見ながら、その内容について話をするという内容だったと思いますが、この授業が本当に楽しかったのです。

「なんなんだ、こんなおもしろい仕事があるのか?」と、ここでも衝撃を受け、日本語教師になりたいと思いました。

以前から教師という仕事には興味があり、一応教員免許も持っていました。ただ、大学生の時に行った教育実習では、どうしても学校文化に馴染めず、「やっぱり私には無理だ」と諦めたことがあります。私は、子どもの頃から、みんなと同じにできないトラブルメーカーで、学校が全く好きでなかったのに、なぜ、教師になりたいと思っていたのかは、自分でもよくわかりません。

しかし、そのとき体験した「日本語教師」は、私のイメージする教師とは、全く別物でした。

そのセミナーの後、日本語教師を目指すことを決断し、勤めていた印刷会社を辞めました。当時、「ジャマイカで日本語教師になります」とあいさつしていたように思います。冷静に考えたら、かなり危ないやつです。

その後、派遣社員として働きながら、アルクの通信講座で日本語教育の勉強をし(アルクの思う壺です)、なんとか「日本語教育能力検定試験」に合格しました。

ジャマイカとは出会えずUターン

これで、晴れてジャマイカにいけると思ったのですが、すでにジャマイカでの日本語教師の募集は終わっており(笑)、結局、アメリカへ派遣されることになりました。アメリカでは、高校と学区内の小学校で、アシスタントティーチャーのようなことをしながら、1年間を過ごしました。

帰国後、地元に戻り、近所で開催されていた日本語教室に顔を出したところ、日本語学校で働いてみたらと勧められ、早速応募しました。地元に日本語学校があることすら、知りませんでした。

初めは、非常勤からスタートしましたが(副業として、家の近くの工場で、金属のバリ取りとかしてました)、1年くらいで常勤になり、その後、教務主任がなかなか見つからないという事情もあって、なぜか、教務の運営にも関わるようになりました。

この学校では、12年ほど働きましたから、自分の日本語教師としてのキャリアを形作ったのは、この学校での経験でした。

地域の日本語教室にも関わっていたため、そのうち、地域のボランティア養成講座の講師としても声がかかるようになりました。養成講座の講師陣を見ると、そこには、「春原憲一郎」という名前がありました。「おー、なんか私すごい!」と、その時、とても感動したのを覚えています。

春原先生との再会

こんな感じで、運と成り行きで日本語教師の道を歩んでしまいましたが、さすがに、人の上に立つようになると、経験だけで乗り越えてきた自分の知識に自信がなくなってきました。もっと体系的に日本語教育を勉強したいと思い、一念発起して、大学院に進学することにしました。

大学院では、これまで積み上げてきた自分の経験を、一度、ガラガラポンして、もう一度積み直すというしんどい経験をしました。自分の持っているパーツを変えることはできませんが、積み方や組み合わせが変わり、全然別のものになる、そんな感じです。

一応、修士課程は修了しましたが、「研究」という領域は、自分には向いてないということも自覚でき、再び、現場に戻ることにしました。しばらく都内の日本語学校や専門学校で働いていましたが、「山の日本語学校」の立ち上げの話があり、これをきっかけに移住しました。

「山の日本語学校」で働き始めた頃、研究会に春原憲一郎先生がいらっしゃると聞き、ドキドキしながら参加しました。それまで、直接お会いする機会がなかったのが不思議ですが、アルクで初めて会って以来の再会となりました(私にとっては再会ですが、春原先生にとっては初対面です)。研究会のあと、近くの居酒屋に飲みに行き、これまでの経緯を先生にお話ししました。

そして、「山の日本語学校」でやっていることを話したとき、先生は「お前、おもしろいやつだなあ」と、何回も繰り返し、ガバガバお酒を飲んでいました。「お前、おもしろいやつだなあ」と、私にとっては、最高の褒め言葉に感じました。

* * * * *

以上が、私とボブ・マーリーと日本語教育の話です。

改めて、書き起こしてみると、ボブに撃ち抜かれて以来、いろんなものに撃たれ続け、運と成り行きでここまで来てしまった感じがします。

私は、仕事の中で、学生のキャリアについて考えたり、将来の目標は?などと、偉そうなことを言ったりしていますが、私自身は、ほぼノープランで衝動駆動で動き続けてきました。それでも、消されることなくここにいるということは、何か自分にもやるべきことがあるのかもしれないと、映画を見ながら思いました。

ジャマイカと私

で、ジャマイカはどうした?と思うかもしれません。結局、ジャマイカへは、全くプライベートで、ボブ・マーリーを巡る旅をしました。ボブ・マーリーの生まれた場所、Nine Mileと、ボブ・マーリーが住んでいた家と霊廟がある「Bob Marley Mausoleum」も訪れました。ボブもインスピレーションを受けたという、rock pillowで撮った、私のご満悦の写真を載せておきます。

Bob Marley Mausoleum, Nine Mile, Jamaica

今回もこんな話に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!

共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!