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こんなときだから、「教師の役割」を再考してみた

新型コロナウイルスの影響で、教育関係者の間では、オンライン授業をどうするかで持ちきりです。少なくともGW明けまでは、対面授業を行うのは難しいと思いますし、かなり長期戦になることも予想されます。こうなると、オンライン授業の実施は必至で、様々な勉強会なども開かれています。

私も、いろんなツールを試してみたり、学習者として体験してみたりしています。が、正直、どれも一長一短という感じで、「これ!」というものには、巡り合っておらず、だんだんわけわからなくなってきました。

で、ふと思ったのが、
「私って、どういう授業をしたかったんだっけ?」
ということです。

なんかツールに振り回されてしまって、そもそも、「これを使って、何をしたいんだっけ?」と、本来の目的を忘れがちになっている自分がいました。

ということで、今回は、あえて「教師の役割を再考する」ということをしてみたいと思います。

前々回のnoteで『ことばの教育を問いなおす』の書評を書きました。

それ以来、「教師の役割」ってなんだろうなーということが気になって、改めて、以下の本を読みました。

大村はま・苅谷剛彦・苅谷夏子(2003)『教えることの復権』ちくま新書
(以下『復権』)

勢いで、大村はまの下記の本も読み返しました。
大村はま(1996)『新編 教えるということ』ちくま文芸文庫
(以下『教えるということ』)

大村はまの著書は、なにかおばあちゃんに叱られているみたいで、読んでいて、背筋がピーンと伸びる感じがします。

考えさせられることがたくさんあったため、これらの著書の感想をまとめていたところ、今回の新型コロナウイルス騒ぎになってしまったので、書きかけのまま放置してました。(私、このパターン多いなー)

今回は、放置原稿をまとめながら、自分の立ち位置や役割を見直すために、「教師の役割とは何か」を再考してみたいと思います。

「大村はま」の実践から「教える」を考える

まず、上記の著書のタイトルにもなっている「教える」ということについて、大村はまの実践をもとに考えてみます。

大村はまの展開した授業は「単元学習」と言われています。この「単元学習」とは何か、ということに対して、『復権』では、下記のようなやりとりがされています。

夏子:大村先生のなさった仕事は単元学習だということは言えるけれども、その実践例を見ても、単元学習の定義が簡単にできるほどには、明確な共通点があるわけではない。教材も方法もほんとうにいろいろでしたし。そのいろいろだという点が共通点なくらいで。
大村:結局、定義なんてわからなかったんですよ。(p.86)

このやりとりからもわかるように、大村はまの実践には、決まった型があるわけではありません。教材も、方法もさまざまです。

でも、実践例を見ていくと、その単元の目標に向けて、かなり周到な準備がされていたのではないかと想像できます。まず、子どもたち一人一人をよく観察し、どの子どもにどんなものが必要かを的確に見極め、それぞれの状態に合わせた教材を用意しています。

そして、環境整備も抜かりない。使用する教材や教具など、自由に惜しみなく使っているように思います。また、図書館に配置する本など、単元学習の目標に合わせた教室外の環境も周到に整えていたようです。

この辺は、本人が言及しない限り、授業の参加者である子どもたちは気づいていない可能性があります。そのくらい、さりげなく環境を整え、学習に自然に集中できるような工夫をしていたのではないかと、私は想像しています。

そして、この「単元学習」における重要なポイントは「てびき」ではないかと思います。与えられた教材に対して、子どもたちは何をするのか、それが明確に記されていたものだったようです。

私は、この「てびき」を、思考を促すための指南書のような、それぞれの思考の枠を飛び越えるための道しるべのようなものだったと思っています。従来の教科書にある「手引き」とは、質の異なるものであることは明らかです。

この「てびき」に関連して、大村はまは『復権』の中で次のように述べています。

子どもに向かって、丁寧に読みなさい、詳しく書きなさい、深く話し合いなさいなどといって命令するだけでは、専門家としての教師の仕事ではない。それがちゃんと実現するようなてびきを教師はすべきだと私は思っていますが、てびきとはそういうことです。それをしないで命令や解説をするだけでは、教えたことにならない。(p.103)

大村はまは、この「てびき」を子ども一人ひとりの顔を思い浮かべながら、その都度、作っていたようです。同じものを使いまわすことはなかったと。すごいパワーです。

「教える」とは何か?

以上のように、大村はまの考える「教える」とは何かを読み解いていくと、私たちが一般的に想像する「教える」とは、かなり意味合いが異なるのではないかと思います。

大村はまは、『教えるということ』の中でも

「教える」ということをしない教師がたくさんいる(p.37〜)

と嘆いています。


ここで、改めて考えてみたいのは、「教えるとは何か」、ということです。

今は、教師の役割を表す言葉に、ファシリテーターとか、コーチ、プロデューサーなど、様々な表現が使われています。また、「教えない授業」ということも言われるようになってきました。むしろ「教えない」ことがいい授業だという捉え方をすることもあります。私が行ってきたプロジェクト型の実践も「教えない授業」の一つと考えられています。

しかし、私は、プロジェクト型の実践を進めながら、この点に何か違和感を感じていました。そして、この実践における教師の役割とは何かというのを、ずっと考えています。

私の授業実践の話をすると、必ず「教師は何をしているのか」「この実践における教師の役割は何か」ということを質問されます。

授業見学に来られた方も多くいますが、授業中は、学生の様子を観察して記録にとったり、かと思えば、学生ほったらかしで見学者と話していたりするので(笑)、「何もしていない」と思われがちです。確かに、「授業中は」何もしていないように見えます。

しかし、実際のところ、本当に何もしていないかというとそうではなく、この授業の前後には、周到な準備をしますし、「ここぞ」というときには、プロジェクト自体にかなり介入していくこともあります。その「ここぞ」をどう判断するかは、普段の授業の観察や分析がもとになっています。
(もちろん、タイミングを見誤ることもあります)

また、私は、日本語教師なので、学生たちが「伝えたいこと」「表現したいこと」をどのように表出すればよいか、議論や思考を深めるためにはどのような枠組みや働きかけをすればよいかということを、慎重に検討し、設計や提案をしています。「何もしていない」わけではありません。

学生に全てを「丸投げ」してしまっては、「あー、楽しかった」だけで何も学ばないプロジェクトになってしまうと思うからです。

「教える」という行為の豊かさ

このようなことを思いながら、大村はまのいう「教える」とは何かを考えてみると、より教師の役割が明確になってくるように感じました。

そして、そもそも、この「教える」という言葉自体が、いろいろな誤解を生んでいるのではないかと思い当たりました。大村はまの考える「教える」は、知識の伝達にだけにとどまりません。「てびき」に代表されるように様々な働きかけをしています。

つまり、授業中に展開される教師の豊かな行為や働きかけを表す動詞が「教える」に集約されてしまい、「教え込み」のように捉えられてしまうこと自体が問題ではないかと思ったのです。

そこで、具体的に私が「教えない授業」で何をしているのかということを、ある日の授業記録をもとに洗い出してみました。

・〜と関連付けながら書くように指示をした
・次のポイントに気をつけて、話をするように伝えた
・(学生が)具体的で明確な提案をしたので、そのまま受け止めた
・目標をもう一度確認した
・〜ということで合意した
・〜と問いかけた

この他にも、学生と話し合いをしながら、繰り返し質問している場面もありました。

大村はまの実践に比べたら、ひよっこみたいなものですが、それでも「教えない」と言われる実践の中でも、このような様々な行為を行っています。それを、「教えない」=「何もしない」と捉えてしまうのは、ちょっと違うのではないかと思いました。また、「教える」という言葉だけで表現するのも難しいと思いました。

これらの行為には、ファシリテーターとか、コーチのような役割も含まれているとは思いますが、それでも、私は、教師の役割には、やはり「教える」という要素が含まれるのではないかと感じています。

プロジェクト型という「活動」に注目されがちな実践は、「教えない」ということがよしとされがちです(あくまでも「知識の伝達」とか「教え込み」とか「正解に導く」などという意味において)。学習者主体とか、自主性や主体性を育てるという立場に立つと、教師は「支援者」であるべきだとされ、教え導くことを躊躇してしまう傾向にあるように思います。

しかし、「主体的な」活動に導き、そこから一歩上の段階に持ち上げるために、教師というのは、重要な役割を担っているのではないかと改めて感じています。

オンライン授業における教師の役割

なぜ、私が今、このタイミングで「教師の役割」について考えたくなったのかというと、最近のオンライン授業への移行の中で、どのようにオンライン授業を行うのか、どんなツールを使うのかに、教師の全神経が注がれ、肝心の「学びの目的」や「目標」がどこかに行ってしまっているように感じたからです。

私がオンラインの授業を行ったり、実際にワークショップに参加したりして感じたのは、教室だったら、その場の雰囲気でごまかすことのできる教師の役割が、オンラインではよりクローズアップされるということです。

今の段階では、教師も学生もオンラインの授業に慣れていません。機器の操作に慣れていないため、わちゃわちゃとしてしまうことも、仕方がないことです。ただ、オンラインがうまくいかなかったときにも、目標さえ、明確になっていれば、代替案が思い浮かぶと思いますが、オンライン授業を成立させることが目的になってしまうと、お互い苦労して準備して、通信費用をかけて参加したのに、「何のため?」になってしまう可能性があるのではないかと思いました。

みんなと会うだけで楽しいという教室と違って、「学び」に対する主体性が求められるオンラインの授業で、参加の意義を感じないまま、何週間も参加し続けるのは、結構、忍耐力が必要なのではないかと思っています。

例えば、目標と課題さえはっきりしていれば、以下のような授業でも十分成立すると思います。

1.  目標や課題などの資料を、学生に郵送する(別に郵送でなくてもいいけど)
2.  決まった時間にzoom等を開設
(送付した資料にQRコードを貼り付けておけば、気軽に参加できると思います)
3.  2の決まった時間に参加できる人が集まって、課題について話し合ったり考えたりする
4.  最終的に全員がどこかに集まり(オンライン上でもどこでも)成果発表をする

追加資料や動画は、適宜追加して発信していけばいいと思いますし、このようなことを繰り返していくうちに、徐々にツールの扱いに慣れていくのではないかと思いました。クラス全員に対し、同時間に一斉に対応するのはなかなかしんどいですが、集まれた人だけに対応するのであれば、何とかなりそうです。

また、集まった人が、オンライン上でつながりながら、それぞれの作業を黙々とこなすというのも、意外と楽しいことだというのにも気がつきました。(自分の作業に没頭していると、案外他の人の視線は気にならない)

大村はまのような「てびき」が明確に示されていれば、一箇所に集まらなくても、懇切丁寧な動画がなくても、自分で課題を解決していくことができるのではないかと思います。zoom等で接する機会を設けておけば、問題があったときの対応もできます。

そうはいっても、それぞれの授業の目的やスタイルや環境がありますので、全てが全てこのような授業ができるとは限りません。それぞれの状況に合わせて方略を考えていくことは必要だと思います。しかし、緊急事態ですし、いつものクラス授業と同じことを求めるのは、そもそも無理があると思います。また、1日4時間もオンラインで授業を受けるのは、正直きつい。オフとオンをうまく使い分けることも必要ではないかと思っています。


最後に『復権』の刈谷剛彦氏のことばが、心に響いたので、引用しておきます。

手段であったはずの活動や体験の価値が強調されるあまり、活動を促すこと、体験の場を与えること自体が教育の目標になってきている。そうなれば、目標と手段との関係を冷静に見ようという見方自体がさらに弱まっていく。あるいは、目標が抽象的になると、それを実現するための適切な手段が何であるのかも問われなくなる。(p.185)


オンライン授業は、相手の反応が見えにくいからこそ、教師の役割を見直す絶好のチャンスではないかと思います。一旦立ち止まって、「私は教師としてどのような役割を担っていくのか」を考えることも、こんなときだからこそ、必要だと思いました。

今回も長くなりましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました!
この状況をバネにして、新たな道へ進めたらいいなーと思っています。


共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!