あの日、あの時。

 8月9日。
 昨日の夜、終電車に乗った。そして気が付いたら最寄りの駅から二駅過ぎていて、
歩くしか手はなかった。雨に打たれながらとにかく歩いてどうにか家についたのは午前2時。そのまま倒れるように寝た。
 次に目を覚ましたのは午後12時。いや、寝すぎだろ。人生の夏休みである大学生の夏休みなんて無敵スター状態と言っても等しいのに、それを無駄にしすぎている。私のあほちんが。
 そんなバカみたいな思考と共に出てきたのは、黙祷できなかったということだった。

 3年間だけ長崎に住んでいたから8月9日にはそれなりに思い入れがある。

学校の平和教育の一環で平和記念館に行ったことがある。
 被爆後の街の姿を映した白黒写真や焼けこげた服。戦死者の名前を記した本がずらりと保管してあり、どれを見ても胸が痛かった。
 そんな中、ひときわ心に残っているものがある。それは11時2分で止まってしまった時計だった。
 これを見た瞬間、背中に寒気が走った。この時計と同じように自分が生きている時間も止まってしまった気がした。でも、もしかしたら間違っていないのかも知れない。一発の爆弾で生きてきた流れをせき止め、無理やり道を作った。それが良いのか悪いのかは立場によって違うだけで私たちはそれを悪いと認識している。私自身もその〝強制的に道を作る〟というやり方はおかしいと思うし、それを良いとしている人は、自己正義を振りかざしているだけだと思ってしまう。
だから戦争はいけないんだ。今の人たちはそう謳うけど、本当にそう思っているのだろうか。
今も形を変えて小さな戦争は続いていると思う。SNS上でよく知らない人に対して、周りの意見に流されて攻撃するという形。これは偉い人に、あの人たちは悪い人たち、戦え、と言われて、殺しに行くことしか選択肢のなかった過去の国民と同じではないのか。なんて思ってしまう。
 実際過去の人たちの思うところは分からないし、実際に経験していないから、あくまで甘く優しい世界で生きてきている現代っ子の戯言にしか聞こえないだろうけど、現代っ子も現代っ子なりに、戦争に向き合う必要があると思っていることを勝手ながら現代っ子代表としてこのひとり言で伝えたくなった。

 何はともあれ、物理的な攻撃はしたくない。「平和」というのは簡単だけど、その平和とは何なのか、どうしたらそれを守れるのかそれを考え続けられる人間になりたいものだなぁ。なんて思いながら、78年前に生きていた人々に想いを馳せてみる。

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