車いすの介助が断られたニュースへのコメントを読んで


昨日あったニュースへのコメントを読み、悲しくなり、そしてデザインでいう問題解決や課題発見とはどういうことだろうということを考えました。


車いすを利用している女性の方が、列車に乗ろうとした際に介助を断られたとのこと。

ニュース自体を見ると、最終的に国土交通省から指導が入ったということで、改善に向けての動きがあるかと思うのですが、このニュースを受けてネット上では様々な人がそれぞれの言葉で、車いすを利用されている方を非難している言葉が目立っています。(ショックを受ける方もいらっしゃると思いますので、ピックアップは差し控えます。)

その方たちが気にしているのは

経済的合理性:補助をしても企業は儲からない

自己責任:わかっているのだから自分で手配するべき

完全思考:資格や知識を持っている人でないと手助けはできない。何かあったら大問題になってしまう。

に集約されそうな気がしました。

言い換えると真面目 あるいは 四角四面 だとも言えます。


私の祖母は若いころから足が悪くずっと松葉杖を使い、ほとんど外出することはありませんでした。年がいってから車いすユーザになったのですが、なにぶん山奥の田舎のことで坂道や階段に阻まれ、やはり行動範囲は限られていました。それでも、家の中を自由に動き回れると、うれしそうに車輪を回していたことはとても印象に残っています。

私の祖母が自由に行動できても、きっと経済にはほんの少ししか(例えば食べ歩きをしたり、ショッピングで何か見かけたものを買ったり)影響はないでしょう。でも、一人の個人が、あれほど、自分自身を自分の力で動かせることに喜びを感じていたということは、そばにいるわたしにとっても、とても喜ばしいことでした。何しろ、足の悪い自分のことを「役立たず」と自称するような祖母でしたし、足を悪くした原因は祖母が若いころに起こった土砂崩れで息子をかばい、その後の医療ミスが原因だったのです。

「デザイン思考」では、「共感」が大事だとされています。ここで、デザインを持ち上げたい気持ちも沸き起こってきますが、なぜ「共感」がデザインにしかないプロセスなのかを考えなければならないとも思います。

わたしがうっすらと考えてるのは「理論」が「共感≒感情」の働きを阻害するということです。経済的合理性、自己責任、完全主義は、物事を論理で積み上げた考え方の行きつく先だともいえそうです(実際には自己責任は論理破綻していますが割愛します)。

デザイン思考のプロセスを、プロセスとしてただ踏んでも何にもなりません。デザインで大切なことは、「その人個人を絶対に不幸にさせない」そのために「今ある理論を疑い、必要があれば捻じ曲げる」ということではないかと思っています。そうでなければ、課題を発見することはできないのではないかとさえ思います。

車いすの例ならば、「そもそも補助なしで列車に乗れないのがおかしいんじゃないのか」、「駅員じゃなくても補助できるんじゃないのか」、そして、「じゃあ何を変えていかないといけないのか」という意味です。

一方で、理論を重視する人の気持ちもまあ理解できます(かといって、暴言は、あくまでも、許されざることです)。そして”何らかの理由をつけなければ、車いすの補助ができないことに後ろめたさを感じてしまう”こともわかります。だからもっと素直に考えたらよいと思います。

私の好きな言葉に「理性の最後の行動は、理性を超えるものが無限に存在することを認めること」というものがあります。パスカルさんの言葉ですが、感情は理論と敵対するものではありません。いかに捉えにくいからといって、”現に存在している”ものを認めないということは、理性の敗北でもあります。


中森志穂(DXDキャンプ)

https://dxdcamp.com/ 

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