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デジタル・デトックスについて

昨日、Clubhouseの話題で「デジタル・デトックス」について意見交換があり、とても興味深く聴かせていただいた。これは、スマホ依存がエスカレートしている今、少しデジタルから距離をおいて依存度を減らしたほうが良いのではないかという話である。

私こと完全にデジタル依存症と言える。仕事がらITに関わる日常ということもあるし、サラリーマンだった頃は仕事が全て情報管理されていたし、ボスからメッセンジャーでどんどん指示が飛んでくる。そういうプレッシャーの中で日々生活していたのだから、依存症にならないわけがない。

その上で、少し自分の考えをまとめてみようと思う。

なぜ、デトックスか?

純粋にスマホなしでは生きられない人が、あまりの依存意識から漠然と不安を感じるという心境は理解できる。そして、紙にペンで文字を書くことの大切さも特に異論は無い。

ひょっとすると、人間がコンピューターの奴隷に成り下がることへの不安から、このような考え方が出てくるような気もしている。

そこで、少しデジタルと距離を置き、人間らしい生活を見直してゆこうという心境になるのだろう。私自身は現状、デジタルから距離を置くことは難しいと思っている。なぜなら、既に身の回りには多くのコンピュータがあり、ネットワークに繋がっている。クルマに乗ればクルマもスマホ化しているし、メンテナンス用のコンピュータがなければ点検すらできない。

この状況から脱出するには、生活そのものを大きく変えてしまう必要がある。それこそ、よほどの山奥か、どこかの無人島にでも行かなければムリなのではないだろうか。テレビでさえももはやデジタルだから、それほどデジタルから離れることは難しいのである。

マシン化するひと

ところで、この2,30年にわたるコンピュータの進化はすさまじく、ネットワーク社会はそれまでの社会から大きく変化してしまった。

その昔、「OA(オフィス・オートメーション)」という言葉があった。オフィスの自動化、つまり事務処理などの定型業務をコンピュータに代替させる考え方である。

その当時、行政事務の自動化などで職員の仕事が奪われるなどと言われていたが、今ではそんなことを言う人さえいない。結局、自動化が進めば人間はさらに知的生産が必要な仕事へとシフトしてゆくのである。

その中で、一つ問題なのは人間が入力作業を強いられている現場である。毎日端末に向かい文章を作ったり、山積みの伝票のデータ入力を終日行ったりすることが日常茶飯事なのだ。そこには創造性というものはほとんど残されていない。しかし、それすら気づかずに仕事に従事している人が多い。

シンギュラリティについて

一方、シンギュラリティ(技術的特異点)は超えられるか?という話題も良く語られる。「AIの能力が人類を超える」かどうかの議論だ。

現在、特定の領域ではコンピュータは既に人間の能力を超えている。これは機械学習などの技術が進み、多くの情報を扱い、そこから推論を重ねることで(過去をベースとした)予測が立てられるようになってきている。

しかし、コンピューターが知性を持つ領域となると、まだまだ未知数だ。ソニーがネットワーク対応型AIBOを世に出したが、これは人との対話を学習し、飼い主の反応に合わせてAIBOが動作をカスタマイズしているレベルであって、決してAIBOに知性があるというわけではない。

デジタルとほどよい距離を保つ

私の結論は、ほどよい距離を保ちながら適度の依存のなかで、うまく付き合ってゆくしかないということだ。

それよりも、人と人とがネットで繋がるようになってから、コミュニケーションのスピードや量が飛躍的に増加していることに注意したい。あっと言うまに情報が多くの人に伝わってしまうこと。相手との会話で誤解を招くような機会が増えていること。さらにはショック・ドクトリンのような自分たちをどこかの方向へ意図的に誘導されるようなこと。

などだ。必要な情報リテラシーというのは、このような環境下で操られないように自分の立ち位置をしっかり保つということではないだろうか。

そのためには、何が正しいかということよりも、何を信じるのかが大事になってきている。つまり、自分の意思をしっかり保てるかどうかがデジタル時代を乗りこなしてゆく処方箋になるだろう。

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