デジタルvsフィルムに対する僕の答え
フィルム写真をやっていると
「フィルムってデジタルとどう違うの?」
「今時フィルムをやる意味ってあるの?」
みたいな疑問を投げかけられたり、あるいはネットでフィルム写真関連の情報を漁っていると必ずと言っていいほど見かける
”デジタル vs フィルム 論争”
に出くわすと思います。僕は過去に散々この論争を目にしてきました。ネットでも、雑誌でも、いろんなところで勃発しています。
今回は、フィルム写真を8年か9年かやってきた中で僕が思う"デジタル vs フィルム"の答えについてお話をしようと思います。
写真史も芸術も勉強したことがないので(そろそろ少しは勉強すべきだと思ってきています)正確な話はできませんが、僕の経験や周囲の様子をみて感じた主観からお話をします。
長くなりますがお付き合いください。
どうやって比較するか
そもそも、フィルム写真とデジタル写真を比較するときにどう比較すれば正しく比較できるのか、というところについて、よく見かける誤った比較についてのお話をしておきます。
その誤った比較とは、画素数換算での比較です。
簡単に言えば、デジタルカメラ同士でスペックの比較をする際に見る何万画素、という数字をフィルムにも当てはめることで優劣を比較するというやり方です。
35mmフィルムは推定何千万画素相当だから~とか、大判4x5は何億万画素相当だから引き伸ばすならまだ大判なら分がある、みたいな論じ方をしているのを見かけることがあるのですが。
これ、間違った比較方法です。厳密にいえば、現実性に欠ける比較の方法、です。
画素数が高い方が大きく引き伸ばしても画像が綺麗だから、画素数は高ければ高い方がいい、という理屈はわかるのですが、ではそもそもデジタルカメラユーザーの中にどれほど写真をプリントして観賞する人がいるのか。
この比較の規模というのは駅やビルの壁面の広告とか、そういうサイズのプリントの話であって、一般人がそこまで大伸ばしにすることは、現実的に考えて無いわけです。
そして、それだけのポテンシャルを持っているが使うことはない、という話では、愛好家や趣味レベルでフィルムとデジタルの差について論じるには説得力が欠けます。商業レベルでどうかと言う話ならそれはプロが適宜状況に応じて道具を選べばそれでいいわけで、一般人である我々が口を挟むことではありませんし、反対に我々レベルでフィルムかデジタルかを論じるのであればもっと現実性のある話で論じるべきだと思うのです。
写真が担う二つの特性
僕が考えるに、写真と言うものは二つの特性を持っていると思います。
ひとつめは”情報”という特性。
ふたつめは”表現”という特性。
この二つの特性について、それぞれフィルムとデジタルで考えることで、フェアに比較ができるのではないかと思っています。
写真の”情報”としての特性
海外の写真の歴史や文化についてはあまり詳しく語れませんが、少なくとも日本において写真というものは、長らく報道と密接に関係してきたように思います。
文字だけでは伝えきれない情報を、より視覚的に直接的に人に届けるための手段として写真が用いられてきました。
日本の写真の歴史の中で、報道カメラマンという存在は一定の力を持つ存在だったように思います。
そして、写真のプロである報道カメラマンのためにメーカーはカメラを開発してきたという側面があります。
今でも報道現場で用いられているのはニコンやキヤノンのカメラですが、フィルム時代からニコンF、キヤノンF-1などはプロが仕事で使うカメラとして、最上位機種の位置づけをされており、特にブラックペイントカラーはプロの証ともいえる存在で、カメラやカメラマンに憧れを抱く人々にとってもそれは特別な存在でした。
そんな報道現場において、写真に求められるのは「何が写っているか」を正確に伝えること。それがどんな形で、どんな大きさで、どんな色をしているのか、ということを正しく伝えることが求められました。つまり、りんごは丸くて、手のひらに収まる大きさで、赤い、ということがきちんと伝わらなければならないのです。
今尚、デジタルカメラにおいても時折言われる『再現性』などという言葉はまさしくそれで、目の前にあるものが目に見えたとおりに写っているのか、ということを意味しています。
さて、この写真の”情報”という特性についてですが、この特性は”デジタル”という性質のものととても相性が良いことで知られています。
というのも、情報は鮮度が命であるが故、情報が伝播する速度は早ければ早いほどいいわけです。
今は写真を撮ったその場で発信をすることが可能ですから、ほぼタイムラグなく広めることができるようになりました。
フィルムの時代の頃は、撮った現場から伝書鳩にフィルムを持たせて新聞社に送り、大急ぎで現像して記事に載せるということをやっていた時代もあったようですが、どう頑張ったって撮ったその場で拡散できる現代と比べてしまえば勝ち目はありません。
デジタルという性質との組み合わせにより利便性と速度が増した現代で、わざわざ”情報”という分野において新たにフィルム写真を選択する理由はないと思われます。
最早、そういった用途でフィルムが出る幕はないのです。
写真の”表現”としての特性
では、もうフィルムは過去の遺物に成り下がったのかと言えば、まだそうとは言い切れないと思います。
何故なら、写真にはもうひとつ、”表現”としての特性を持っているからです。
これは先のりんごの例で言えば、赤いりんごを赤く写すのが情報としての側面であれば、赤いりんごを青く写すのが写真における表現としての側面です。
そこにあるものを事実として正確に表現する”情報”に対して、撮影者の意図した形に加工できるのが”表現”としての特性です。
赤いりんごを青く、というのは極端な例ではありますが、写真というのはなにも被写体を正確に写しとることだけが写真ではないのです。
写したいものを強調することもできるし、反対に写したくないものを隠すこともできる、あるいはこの世に存在しない形で表すことだってできる。
写真にはそういう、撮影者の意図によって情報を変化させることができるポテンシャルを持っています。
日本では長らく報道写真が力を持っていたためか、写真とは真実を写すものだ、という考えが根深く定着していたように思います。
それ故、デジタルとなった今でも「どこまでがレタッチ(修正)か加工か」といった議論が見られます。というかデジタルになって加工が容易になったからこそ、「真実を写る写真 vs 撮影者の意図としての表現」をバックにレタッチor加工論争が過熱しているようにも見てとれます。
デジタル写真においてどこまでがレタッチでどこまでが加工かという事は置いておいて、僕はこの傾向自体は悪いことだとは思っていません。
と言うのも、この『撮影者の意図としての表現』として、今だからこそフィルム写真が”表現”のひとつの選択肢としてなり得ると思うからです。
この傾向は、instagramなどSNSで写真を共有する過程で、写したものをより魅力的に表現するにはどうすればいいか、というノウハウが求められ共有され始めたのが要因の一つではないかと、僕は勝手に思っています。
それは、モデルを美しく見せるためとか、商品を欲しいと思ってもらうため、と言った写真の撮り方ではなくて、自分が良いと思ったものを強調し発信し共感を得る。所謂インスタ映えの文化によって(勿論これは要因のごく一部)写真は加工して当たり前、という意識が浸透し、写真=真実を写すという図式が壊れ始めているのではないかと思っています。
”情報”という側面においては最早フィルムを選ぶ理由はなくなりましたが、それは情報としての写真には「どのカメラでどのレンズで誰が撮ったか」といった要素は重要視されないから、というのも理由に挙げられます。
同じものをフィルムとデジタルで撮ったのなら、すぐ結果が見られてその場で拡散できるデジタルの方が情報ツールとして圧倒的に利便性が高いから、デジタルが選ばれるわけです。
しかし、反対に「どのカメラでどのレンズで誰が撮ったか」が重要な場面においては、フィルムで写真を撮るということも勿論選択肢としてあり得ます。むしろ現実に、一部では若者を中心にフィルムで撮ることを好む傾向が増えてきているとも聞きます(市場的には縮小の一方なので商業ベースで見ると微妙ですが、あくまで表現の手段としてフィルムが選ばれる機会が増えたという話なら、そうなのではないかと思います)。
解像度がどうとか階調性がなんだとかでフィルムとデジタルとをくらべてどっちがどうとか言ったところで個人の好みの問題でしかないですが、結局最終的に
「それもひっくるめてフィルムがいい」
と言ってフィルムを選んで撮るのなら、それがその場の結論なのだと思います。
そして、「フィルムがいい」が全ての答えになってしまう”表現”という特性においては、まだフィルムはデジタルと互角に戦える、むしろ最近になってまた互角に戦えるように勢いづいてきたと言えるかもしれません。
まとめ
繰り返しになりますが、これはあくまで僕の個人的な答えと前置きをした上で”デジタル vs フィルム 論争”の答えですが、
”情報”という特性においてはフィルムの出る幕はなくデジタルの圧勝だしこれからも加速が止まらないと思うが、”表現”という特性においてならまだまだフィルムは戦える
というのが僕の答えです。
良いと思ったらそれが答え。数値がどうとかで比べる必要ないんだよなぁ、我々趣味レベルの人間には特に。
といったところで、お付き合いありがとうございました。
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