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オフコース論④4人のロックバンド期(1983~1989)

1983年9月、結果的にオフコースは4人のグループとなりました。
小田さんは鈴木さんが抜けるとなった時、どうしたら良いのか分からかったそうですが、清水さんに「それなら4人でオフコースをやったらええんや。海外のバンドはみんなメンバーチェンジをしている」と言われ、決心をしたとのことです。しかし、ただバンドを続けようとした訳ではありません。「じゃあ、3年間だけやろう。3年の間に力をつけて、バンドに頼らなくてもやっていける自分になって終わろう」と小田さんは周囲に言ったそうです。

第二制作部の独立と「YES-YES-YES」

オフコースはデビューして以来、東芝EMI(デビュー時は東芝音楽工業)というレコード会社と契約していました。途中で第一制作部から第二制作部へと異動し、エキスプレスというレーベルからレコードをリリースしていましたが、その制作部が独立することになり、オフコースは新たに独立する会社に参加することになりました。この独立劇は水面下で行われていたようで、人によっては謀反であると思われたりもしたようです。この新しい会社が「ファンハウス」という会社であり、そのキャスティングボードを握っていたのがオフコースでした。

4人の再出発は新しいレコード会社からとなる訳ですが、それでは古巣のレコード会社は面白くありません。そこで東芝EMIは、ベスト盤のリリースを企画します。レコード会社移籍時にはよくあることですが、オフコースとしては4人での再出発ということもあり、4人体制が順調に乗るまでリリースは待って欲しい、とお願いしたそうです。しかしその交渉は決裂し、激怒した小田さんの「勝手にしろ!」という言葉がアーティストの許可と受け取られ、「YES-YES-YES」というベストアルバムが1983年11月3日にリリースされています。アルバムの内容は「僕の贈りもの」から「YES-YES-YES」までのシングルA面12曲を集めたもので、選曲に目新しいものはありませんでした。

しかしこのアルバム、ミックスダウンは再度行われているようで、音の定位やエフェクト処理などがオリジナルとは異なっております。「秋の気配」はエンディングにオリジナルではカットされていたと思われるエレキギターのカッティングが入っていたり、「I LOVE YOU」はシングルバージョンとアルバムバージョンの融合したものだったりして、それはそれで非常に楽しめるアルバムではありました。

現在ではこのアルバムは不遇というか、どういうポジションにあるものなのかがよく分からなくなっています。発売当初は、オフコースとしての公式のアルバムだったはずです。4人になってからのツアーパンフレットにも公式のものとして載っていましたし、小田さんもソロになってからのインタビューでこのアルバムについて語っていたりすることもあったのですが、気が付くといつの間にか非公式なベスト盤ということになっており、リマスタリングもされず陽の目を見ないアルバムになってしまいました。まぁ考えてみれば、「オフコースは4人になります」と発表した直後にベスト盤とは言え5人のアルバムが出て、特典に5人のポスターまで付いていましたからね。混乱した人もいたかもしれません。

そして1983年12月8日、渋谷エッグマンで行なわれたジョンレノンの追悼ライブで4人のオフコースは初ステージを踏み、4人としてのスタートを切ったのでした。

1984年4月21日 シングル「君が、嘘を、ついた」発売

4人のオフコースは、まず新曲のレコーディングから始めました。結果として、シングルのリリース後にアルバムが続きましたが、作業としてはアルバム全体のレコーディングとして行なわれたのだと思います。
まず4月にシングル「君が、嘘を、ついた」がリリースされ、6月21日に4人になって最初のアルバム「The Best Year of My Life」が発売になりました。

「君が、嘘を、ついた」を初めてラジオで聴いた時の衝撃は忘れられません。新生オフコースの第一弾がこの曲だということに、ワタクシは非常に喜びを感じました。当時はそれまでのオフコースのイメージを払拭する斬新な曲、と思っていましたが、今聴くとそれほど方向性は変わってないかもしれません(笑)。しかし、ギターソロが鈴木さんではなく松尾さんになり、それまでよりハードなフレージングになったのは確かです。ギターの音色も、よりメタリックになり、情念の歌詞の世界を更に引き出すものになっています。それはB面の松尾さんの曲「愛よりも」にも共通する話で、こういったヘビーなサウンドをオフコースがやるということに、4人の覚悟を見た気がしました。

1984年6月21日 アルバム「The Best Year of My Life」発売

「君が、嘘を、ついた」をパイロットシングルにして、その2ヶ月後に4人最初のアルバムがリリースされました。その肌触りは「硬質」。ビートの強いマイナー調の曲が多く、新しいオフコースの世界が感じられます。基本的には5人時代の録音方法を踏襲しているとのことですが、使われている楽器、機材などには変化が生まれています。

一番の変化は電子楽器類のデジタル化です。シンセサイザーやリズムボックス、エフェクター、ミキサーといった機材が、デジタル化されていったのです。デジタルになって楽器の性能も格段に良くなり、それまでサブ的な役割だったものがメインで使われるようになります。例えば、「君が、嘘を、ついた」のドラムは、イントロの頭やフィルに使われるシモンズ(電子ドラム)は大間さんが叩いているかもしれませんが、基本的にはLinn LM-2が使われています。リズムボックス自体は1982年のアルバム「over」からLinn LM-1が使用されておりましたが、ここまで全面的に使用されたのは初めてだったのではないでしょうか。それは音が格段に良くなったこと、LM‐1ではプリセットされていなかったシンバル類が使えるようになったことなどが大きいと思います。

シンセサイザーに関してもそれまでの多くはアナログであり、デジタルになって圧倒的に使いやすくなりました。小田さんはプロフェット5やローランドRS-09、ミニモーグ、松尾さんはARP Prosolist、ヤマハSS-30、コルグPolysixなどを使っていましたが、この頃からヤマハのDXシリーズのシンセが使われ始めたようです。1983年に発売されたヤマハのDX-7というデジタルシンセサイザーの誕生は、世界中の音楽を一変させました。それはその後、オフコースにも大きな影響を与えます。4人になって5人時代と雰囲気が違うと感じる人がいるとすれば、デジタル楽器の普及がその理由のひとつであるとも言えるでしょう。

そしてアルバムから7月18日に「夏の日/君の倖せを祈れない(アルバム未収録、作詞・小田和正、作曲・松尾一彦)」、9月21日に「緑の日々/City Lights(アルバム未収録)」がシングルカットされ、4人のオフコースは快調にスタートしたのでした。

1985年の快進撃

1985年4月26日、4人になって初めてのコンサートツアーがスタートしました。ツアータイトルは「The Best Year of My Life」。前年に出たアルバムと同タイトルです。鈴木さんが抜けてどうなるのかと思いきや、何とサポートメンバーを加えて行うとのこと。しかもサポートはギタリストかと思ったらキーボーディストということで、それはそれは二重の驚きでした。サポートメンバーは西平彰氏で、沢田研二氏のサポートを行なっていた人でした。

それまでのオフコースは、基本的にギターバンドでした。2人のギタリストがサウンドの要になっており、装飾としてシンセが使われるようなことは殆どなく、バッキングのフレーズを積み重ねることでサウンドを構築していたように思います。それがバンドの特色になっており、譜面を見るとそれほど難しいことはやっていないように見えて、実際に音を出すとそれ通りにならないという、パーマネントなバンド特有のコンビネーションがありました。それはメンバーそれぞれの演奏技術や弾き方の個性から生まれるもので、音楽は譜面だけではないということを証明するものだったと思います。

ライブでの楽器類も大きく変わりました。小田さんのプロフェット5はあるものの、CP-80はMIDI仕様になり、フェンダーローズはヤマハDX-1に変わりました。当時はFM音源が流行り始めた頃で、CP-80とDX-1のエレピの音を同期させていたようです。松尾さんのギターもレスポールからストラトに変わり、5人時代の太く重たい音から、軽めのバッキングにも対応出来るものに変わりました。それはやはり、ギターが1人になったというのが大きいのでしょう。そこに西平氏の煌びやかなシンセサイザーが加わり、4人のオフコースサウンドは、5人時代とは大きく違うものになっていったのでした。

1985年のオフコースは、ツアーが始まる前の2月21日に「call/二人の夏」、ツアー中の5月22日に「たそがれ/LAST NIGHT」、ツアー終盤の9月21日に「夏から夏まで/ぜんまいじかけの噓」という3枚のシングルをリリースしています。この畳みかけ感は長いオフコースの歴史の中でも特別な感じだったのではないでしょうか。いずれもA面は作詞・作曲 小田和正、B面は全て作詞・秋元康、作曲・松尾一彦という新しいコンビによるものでした。外部の作家に詞を依頼するというのは、それまでのオフコースには殆どなかったことなので、それもまた新鮮でした。この時期のレコードでの松尾さんのギターは非常に尖った強いディストーションサウンドで、個人的には大好きな音でしたね。「LAST NIGHT」「ぜんまいじかけの嘘」は新しいオフコースの顔のような曲だったと思います。

1986年のソロ活動

ツアーが終わり1986年になると、バンドとしての活動は休止をし、それぞれがソロ活動を行なうことになりました。この休止は82年の時とは違い、コンセプトを持って行うということでしたので、安心してそれぞれの活動を見ることが出来ましたが、本当のところは少々違っていたのかもしれません。というのは、実はこの時期は小田さんが再始動の時に告げた「3年だけやろう」の3年目だったからです。この時のソロ活動は、いずれ訪れる解散を見据えた予行演習のようなものだったのかもしれません。ともかく、小田、松尾、清水の3氏はソロアーティストとして、大間氏はプロデューサーとして1年間活動することになりました。

最初に表に出たのは松尾さんで、7月にソロアルバム「Wrapped Woman」をリリースしました。松尾さんのことなので、ハードなロック系のものかと思いきや、全編打ち込みを基本としたポップなサウンドでした。打ち込みは松尾さん自身が行ない、ベースに元一風堂の平田謙吾氏、キーボードにロビー・ブキャナン氏などその他数名が参加しておりますが、基本的には打ち込みで作ったサウンドの上にベース、その他の楽器が乗る、という感じです。ドラムマシンはLinn LM-2の他にもヤマハRX11が使われていたりして、街の楽器屋で売っている機材で、ちゃんとした音楽が作れるんだ!と驚いたものでした。それまでのプロの機材は高価なものでしたから。

11月にリリースされた清水さんのソロアルバム「ONE」も同じく、打ち込みを基本としたサウンドでした。シンセサイザーを多用した音作りは、かつて在籍していたバッドボーイズともオフコースとも違う、バンドという枠に囚われないソロ・アーティストとしての自由さがあったように思います。ミックスダウンをイギリスで行なったということも、サウンドの印象に大きく影響を与えているのではないでしょうか。
このアルバムにも平田謙吾氏が参加しており、ベースだけにとどまらず、キーボードやコーラスなども披露されています。後に清水さん、平田謙吾さん、松尾さんはユニット「ONE」として活動することになります。

そして12月には小田さんのソロアルバム「K・ODA」がリリースされました。小田さんはアルバム制作のために渡米し、7ヶ月もの間、ロサンゼルスで作業していました。パイロットシングル「1985」は11月に発売されておりましたが、そのサウンドはオフコースよりハードでさらに硬質、ヒリヒリする鋭いナイフのようなサウンドでした。それもそのはず、バッキングのメンバーは当時のアメリカ西海岸の一流ミュージシャン達だったのです。

しかし、単にミュージシャン達に演奏を依頼した訳ではありません。実は小田さんも、この時自ら打ち込みを経験しています。この時行なっていたのは、ヤマハQX-1というシーケンサーに演奏データを打ち込み、そのデータを採譜したものをミュージシャン達に渡し、生演奏に差し替えるということを行なっていたのです。アレンジを譜面だけではなく、一度コンピューターで再現して確認をするという作業は、これまでになかったことでしょう。

1987年「as close as possible」

1987年になると、オフコースはバンドとして活動を再開します。87年3月5日にシングル「It's All Right」、同月28日にアルバム「as close as possible」をリリースします。このアルバムは2ヶ所のスタジオで同時並行でレコーディングが行なわれ、メンバーそれぞれの曲はそれぞれのディレクションで進められたようです。それぞれのソロ活動で学びを得た打ち込みの技術はここでも多用され、それまでとはカラーの異なるアルバムとなりました。打ち込みが中心ということもあり、松尾さん曲のキーボードに小田さんはあまり参加していません。元々松尾さんはキーボードが弾ける人なので、かつてのように「せーの!」で録らなくていいのであれば、松尾さん自身で作業を進めることが出来たのでしょう。4人になってからは、それぞれで作業を進めることが多くなったようです。例えば「愛よりも」のピアノも松尾さんの演奏ですし、「LAST NIGHT」のシンセも松尾さんの手によるものですから。

アルバムではオフコースとして初めて清水さんがリードボーカルを取る曲があり、清水さん作曲の曲、小田さんと松尾さんの共作、作詞家松本一起氏の参加、メンバー共作の詞、小田さんのソロ・プロジェクト時の曲の収録など、超バラエティーに富んだものになりました。

「as close as possible」のツアーでは、サポートメンバーが更に充実します。キーボードに元ツイストの神本宗幸氏、サックスに園山光博氏、トランペットに富樫要氏が加わり、ライブでの音の厚みが増し、より華やかなサウンドになりました。小田さんのキーボード周りはCP-80もDX-1もプロフェット5もなくなり、ヤマハKX-88が正面を向き、左横にDX-7があるだけになりました。楽器が減ったのか?と思いきや、KX-88をマスターキーボードにして、MIDIでその都度音色を選ぶスタイルに変わり、楽器数としては以前より増えていたのでした。シンセは必ずしも鍵盤がある訳ではなく、音源モジュールとしてラック式のものが増えてきたのもこの時代の特徴です。4人時代のエレピのメインの音色は、ヤマハTX816を中心にして作られていたと思います。
このツアーでは日本武道館で連続8日間の公演を行い、4人のオフコースは順調に進んでいるようにワタクシには見えていました。

1988年「Still a long way to go」

1988年1月、シングル「君住む街へ」がリリースされます。この曲は今でも小田さんのライブで歌われる曲で、小田さん自身が大切にしている曲なのだと感じる名曲です。

そして6月にアルバム「Still a long way to go」がリリースされました。ここで事件が起きます。収録曲に「逢いたい」という清水さん作曲の曲があるのですが、その歌詞を吉田拓郎氏に依頼したところ、拓郎氏は快諾。それはそれで問題ないのですが、拓郎氏に依頼したということを小田さんは聞かされておらず、それで大激怒したとのことです。もちろん、拓郎氏に依頼することも、拓郎氏が書くことにも何も問題はありませんが、それを聞かされていないということに問題があるということのようです。最近になって清水さんは、「あんなに怒った小田さんを見たことがないくらい怒っていた。言ってなかったかなぁ…。でも言ってなかったんだろうなぁ…」と語っておりました。

このことが原因ということではないでしょうが、このアルバムが発売になる頃にはオフコースの解散は決まっていて、小田さんとしてはツアーも中止したいということでした。メンバーの説得によって、ツアーは最後までやろうということになりましたが、6月から翌年2月までの100ヶ所を超える長期のツアーでは、「顔も見たくないということは、どこのバンドも経験しているはずだ」と小田さんが言ったように、精神的になかなか辛いものであったようです。

解散の発表はツアー中盤の10月頃、まずファンクラブ会員に郵送で知らされました。ワタクシのところにも白い封筒が届き、申し込んでいたライブの先行予約のチケットだと思い封を開けたところ、解散のお知らせだったという衝撃は今も忘れらません。解散など1ミリも考えていませんでしたから。

アルバムは打ち込みを中心にした前作を踏襲した作りになっており、メンバーそれぞれがそれぞれのプロジェクトで作業を進めた、という印象です。それでもバンドとしての総意であるような「君住む街へ」や「昨日見た夢」などが収録されており、それぞれ個人になりつつも、最後までバンドであろうとしたことは、オフコースらしいと言えるのではないでしょうか。

1989年2月26日 オフコース解散

小田さんはソロになってしばらく経った後、「ある日突然俺がキレて、バンドを解散しようと言った」と語っていましたが、それは本当でしょうか。と言うのは、最後のアルバム「Still a long way to go」を改めて聴くと、初めから解散するつもりであったような内容に感じるからです。タイトル曲「Still a long way to go」はストレートな別離の内容ですし、アルバムラストの「昨日見た夢」はどう聴いてもファンへのメッセージではないでしょうか。それを読み取れなかった自分はつくづくアホだなぁと思いますが、当時はもうオフコースは解散しないと勝手に思いこんでいましたから、本当に信じられませんでした。

小田さんは「4人のオフコースは本当に色々なことがあった。誰も悪者にならないのであれば、本に書きたいくらいの人間模様だった」と語っていました。大間さんは「4人のオフコースは正直苦しかった。場を収めるために変なまとめ方をしたこともあったし、自分は最後までオフコースのメンバーなのかと自問自答していた」と語っていました。それぞれがそれぞれに思うことがあり、オフコースは2月26日の東京ドームでのライブを最後に解散していきました。それを小田さんは「終わっていく喜び、解放される喜び」と後に表現しています。

「もしも」の話

オフコースに関しての最大の「もしも」は、ファンなら誰もが思うであろう「鈴木さんが脱退していなかったらどうなっていたか」だと思います。結論から言うと、ワタクシはそう大きくは変わらなかったのではないか、と思っています。それは何故か?それは音楽産業における構造の変化には抗えなかったのではないか、と思うからです。

先にも述べたように、80年代中盤におけるデジタル楽器の進化は凄まじいものでした。シーケンサーによる自動演奏、シンセサイザーによる他楽器のシミュレート化は、ポップミュージックというものの在り方を根本から変えてしまいました。もちろんそれは悪いことだけではないのですが、レコーディングということに限って言えば、疑似的にサウンドを構築してしまうことが出来てしまうため、バンドでなくても完結することが出来る、ということです。それは現在にも繋がっていることであり、ワタクシが今まさに行なっていることでもあります。しかしそれがバンドである場合、バンドである必然性が希薄になるということでもあるのです。

かつてのシンセサイザーには、「シンセサイザーらしい音」というものが存在していました。しかし80年代中盤からは、シンセサイザーは何かのサンプリング、何かの代用品としての役割に特化していったように思います。オフコースで言えば、例えば「I'm a man」のブラスは、完全にシンセでサンプリングされた音です。もちろんそれは否定されるものではありませんが、それが出来てしまうが故に、バンドとしての特長がぼやけてしまう恐れがあるのは否めません。オフコースは各人が才能ある人達だったが故に、それぞれがそれぞれで完結出来てしまう世界を、それぞれが持ち合わせていたということなのではないでしょうか。

オフコース脱退後の1985年に鈴木康博さんがリリースした「Long Slow Distance」というアルバムは、ほぼ全てのパートを鈴木さん自身が制御し、打ち込みによるバンドサウンドを完璧な形で表現されています。当時の打ち込みサウンドとして、最高峰のものだとワタクシは今でも思っています。
その翌年、松尾さんも清水さんも同じような形でアルバムを発表しました。更にその翌年のオフコースのアルバムも、同じような形で制作されました。そういう意味では、5人のオフコースの方向性は決して異なっていた訳ではないのではないでしょうか。

もしも5人のオフコースが続いていたとしても、そのようなデジタル技術の進化と戦わなければならなかったのは必至だったでしょう。かつてと同じスタイルでのレコード制作やライブは、時代の流れの中ではもう出来ない状況になっていったのは確かだと思います。その中で新しい何かを見つけていったとは思いますが、その新しい何かがシーケンサーやシミュレートというものだったとすれば、やはり同じ道を歩んだのではないでしょうか。デビューしたての新しいバンドであれば、一から積み上げていけばいいのですが、長いキャリアと実績のあるバンドは、バンドであり続ける理由が必要だったかもしれません。80年代中盤とは、全世界的にそういう時代だったのです。

「オフコースは4人になって変わった」「オフコースは5人時代の音が一番好き」という声をよく聞きますが、それはきっと4人だ5人だということではなく、その時々の音をオフコースは表現していたに過ぎないのではないでしょうか。つまり、2人の時代はアコースティックの全盛、5人の時代はエレクトリックなロックの全盛、そして4人の時代はデジタルサウンドの黎明期だった訳で、オフコースというグループはその時々の音と空気を取り入れながら、普遍的なポップミュージックを創造していったグループだったのではないかと思うのです。そういう意味では、サウンドの変化はありながらも、音楽の本質は常に変わらず、だからこそ今もなお多くの人の心を捉えて離さないのだと思います。

終章

オフコース解散時に、とある音楽評論家が「オフコースはフォークからロックに変わったという評価は正しい。しかしもっと正確に言えば、ポップスという器がベースにあったからロックに変われたのだ」と論じていました。これは名言だと思います。一語一句ワタクシはこの言葉を支持します。
長きに渡り、読んで下さいましてありがとうございました。
(ワタクシのnoteは終わりませんので・・・笑)


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