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私の履歴書③

お久しぶりです。6月も半ばとなり、新しい職場で仕事を始めてから2か月半が経ちました。正直かなりナメてかかっていたのですが、想定外の難易度の高さで辟易する毎日です。まだ日が浅いので、そのうち慣れてだんだん楽にこなせるようになるだろうと前向きに考えるようにしています。

さて、前回の記事では大手IT企業を史上最短記録の4か月で退職するところまで書きました。今回はその次に入った会社についてお話したいと思います。

IT企業その3 - クラウドストレージ

この会社はですね…なんというか、私の中ではいまだに複雑な思いを持ち続けています。可愛さ余って憎さ百倍って言葉がありますよね。会社に対して使うのは大袈裟かもしれないですが、まさに私の思いにぴったり当てはまります。

実はIT企業その2(ERP)に応募する前に、IT企業その3に応募していたのですが、その時は4か月に渡って7回もの面接を受けた末、結局内定を得ることができませんでした。
採用担当者から落選の電話がかかってきた時のことを今でも覚えています。その日は残りの仕事もまともに手がつかず、重い気持ちで家に着くと同時に泣き出し、夕食も食べずに寝てしまいました。それくらい入りたかった会社、就きたかった仕事でした。

そんなわけで「その2」に転職したわけですが、転職した後もずっと「その3」のことが頭を離れなかったのです。
「その2」の雰囲気にどうしても馴染めず悩んでいた時、思い切って「CSMのポジションに空きが出てたりしませんかね?」と「その3」の採用担当に再度メールを送ってみました。
詳細は割愛しますが、最初に応募したCSMとは異なるがそれにかなり近いポジションで内定を得ることができ、1年以上越しでようやく入社することができたのです。

この会社で私は一応コンサルタントという肩書きでした。一応、というのは、アクセンチュアやデロイトといったいわゆるコンサルティングファームのコンサルタントとは業務内容が異なるからです。実態はおそらくプロジェクトマネージャといったほうが正確だと思います。つまり、製品を購入してくれたお客さんに対して、初期導入・セットアップの手伝いを提供するのが私のミッションでした。もう少しITっぽい言い方をすると「SaaSの初期導入プロジェクト管理・支援」です。

ここまでブログを読んで下さった方はお分かりと思いますが、この会社に入るまで私はずっと営業の経験しかありません。もちろんプロジェクト管理の経験なんてありませんし、入社の時点で「プロジェクト」の概念も理解していません。しかもITのことなんて正直ほとんど分かってないです。(「その3」に入社した時点ではファイヤーウォールが何かも知らず、同期入社の女性に軽蔑と嘲笑の眼差しを向けられたのを執念深い私は未だに根に持っています。)
こんな私が採用されたのは、その時のハイヤリングマネージャとリクルーターがひたすら私の熱意とポテンシャルを買ってくれたからに他なりません。本当に懐が深い人です。リスクでしかない私を採用してくれたこの人には、今でも深く感謝しています。

ここまで入りたいと思った会社は後にも先にもなく、入社できた時は本当に嬉しかったです。好きな製品を扱える、しかも営業のような数字を持たされる仕事から離れたいという希望もかない、私には夢のような出来事でした。まあ実際これは幻想だったと後になって目が覚めるわけですが、入社時は圧力鍋なみに期待を充満させていたのです。
初めての職種ですので当然いろいろな苦労はありましたが、入社してしばらくは新しいことをしているという楽しさや希望がかなった嬉しさもあり、大変ながらも充実した日々を送っていました。できることがどんどん増えていき、確実に成長しているという手応えも感じられました。実際お客さんや外部のSIerからも「助かってます、次のプロジェクトもXXさんにお願いしたいです」などと大変ありがたいフィードバックを頂戴し、転職してよかったと心から幸福を感じられました。

ところが。調子にのった私は、絶対にやめておけばいいことに手を出してしまいました。社内のイベント担当の役割に立候補してしまったのです。
この会社は各国のメイン拠点から2、3名ずつ、任期1年のイベント担当を任命して、企業文化を醸成するための社内イベントを企画・実行させるという取り組みをしていました。これをしたからといって給料が上がるわけでもないのですが、社内パーティーや各種イベントの先導に加えてグローバル全社会議の司会なんかもさせられるため、かなり目立つポジションです。
Myers Briggs診断スコアで「内向性96%」を叩き出すような根っから陰キャの私がこんな役割に立候補したのは「社内の要人に顔を覚えてもらえれば異動に有利に働くのではないか」という目論見があったのもひとつですが、最大の理由は「周りのプレッシャーに耐えれらなかったから」です。
おそらく入社の経緯からして、こいつはやる気に満ちている、企業文化の育成を背負うに相応しい愛社精神の持ち主に違いない、という印象を周囲に与えてしまったために、「きっと彼女はイベント担当に立候補するよね、彼女しかいないよね」という雰囲気が社内に流れていたのです。
周りの期待を裏切って落胆されるのが恐ろしかったため、心が100%拒絶しているにも関わらず私はこの役割に立候補し、無事任命されてしまいました。しかも日本からは私以外に「この人たちとだけは関わりたくないな」と普段から思っていた2人がドンピシャで任命されたのです。このことが判明した時はめまいがし、いわれのないプレッシャーに負けた自分自身の弱さと馬鹿さ加減を恨みました。案の定この2人とはとにかく馬が合わず、同じ部屋で打ち合わせをしている間も苛立ちと嫌悪を隠すことに神経をすり減らしていました。
ただでさえ慣れない業務をこなすのに必死なのに、余計な面倒を自ら背負いこんでしまい、精神的な疲労がかなり蓄積していたと思います。

そんな折、大腸内視鏡検査を受けました。私は母が大腸癌を患って40代で他界しており、自分自身も35歳を過ぎたら検査をしなければということは分かっていましたが、忙しさにかまけてつい先延ばしにしていたのです。どうせ何もないだろうと根拠のない楽観的な姿勢で臨んだのですが、麻酔から覚めると医師が「ちょっとね、ここでは切除できない大きさのものが見つかってしまいました。大きい病院に紹介状を書くので、そちらで内視鏡手術をしてもらうことになります」と言われました。正直かなりショックでした。この時点ではまだ良性なのか悪性なのかも分からず、不安だけが助長されます。
紹介先の総合病院で問診と入院のスケジュールを組み、受け取った書類に早期癌と書かれていたのを見て「ああ、まじでやばいかもな」と実感が湧きました。30代で発病したら生存率が相当低いことは明白です。母の闘病を目の前で見ていたので、それがどんなに辛くてみじめなものかもよく知っていました。

もし私が母と同じ年齢で死ぬとしたらあと10年ちょっとしかない。それなのに私はいくらでも時間があるという錯覚のもと、渡米という目標のための具体的な努力をしていなかったんじゃないか?と、今まで何となく見ないようにしていた問題がはっきり目の前に突きつけられた気がしました。
「その3」に転職してからは、上司や日本支社長に「いつかはアメリカ本社で仕事をしたい」と伝えてはいましたが、これといった動きはありませんでした。それが、死という分かりやすい時間制限を感じたことによって「今まさに取り組むべき課題」として再浮上してきたのです。

で、どうしたかというと、即座に転職活動を始めました。アメリカへの転勤の可能性だけに主眼をすえ、応募企業はかなり絞り込みました。というか1社しか応募しませんでした。グローバル企業で、国をまたいだ社員の異動を活発に行なっている実績のある企業、ということで、検索エンジン大手G社の某ポジションに応募し、無事に内定を得ることができました。面接のプロセスが非常に楽しく好印象だったこと、国際的な社内異動の可能性は十分にあるという情報も面接の中で得ることができたので、営業に逆戻りという抵抗もそこまで強く感じませんでした。

内定が得られた時点で上司に退職の意向を伝えると同時に、アメリカ本社の同僚にもそのことを話しました。この同僚はあるグローバルプロジェクトで一緒に仕事をして以来友達になり、仕事以外でもよく話をする仲でした。実は彼女自身も近々転職することが決まっていました。私が「やっぱりアメリカに行きたいし、実現の可能性が高そうなG社に行くことにしたよ」と言うと、「私の後任のポジションに入ればいい」と無茶な提案をしてきました。「マネージャーでもないし、平社員がいきなりアメリカ本社に転勤なんて無理でしょ。だいたいG社のオファーレターもうサインしないといけないから時間がないんだよ」
こんなやりとりをした後、彼女は驚くべきことに本社の人事担当とマネージャーに「自分が辞めた後、XX(私)をこのポジションに入れたらいいんじゃないか?XXがいま辞めたら結構やばいことになるぞ」という脅しとも提案ともつかない話を持ちかけてくれたのです。アメリカ本社の関連上層部も全員一致で「それがいい」ということになり、あれよあれよという間に現職からも本社転勤のカウンターオファーが出たのです。
日本の人事部からも「さすがに2日以内に転勤のオファーは出せません」と言われたいたのですが、結局1日半で内定が決まりました。こんなことが起こるのだろうか?と半信半疑でしたが、オファーレターを受け取って電子署名をし、G社のリクルーターに事情を説明して内定辞退すると、いよいよ「本当にアメリカに転勤できるんだ」と実感が湧いてきました。
2020年1月のことでした。

そもそも「私の履歴書」はDV以外の方法でアメリカに行くにはどうしたらいいか?というテーマで書き始めたのですが、ここでようやく「アメリカでの就業のオファーを得る」というところに辿り着きました。ずいぶん話が長くなってしまったことをお詫びするとともに、ここまで読んで下さった皆様にお礼申し上げます。

「外資企業に勤めながら、どうやって本社転勤の道をきりひらくか?」というテーマであれば、ここで話はおしまいです。
「数か月後、夫とともにL-1ビザでアメリカに引っ越し、今はIT企業の聖地シリコンバレーで充実した毎日を過ごしています」
とでも書けたらよかったのですが、ご存知の通り私はまだ日本にいます。まあ人生そんな簡単ではないですね。
この後のことは、後日談として別記事にしたいと思います。

お読みいただき、ありがとうございました。

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