2023年4月29日

古本屋に行きました。中沢新一『雪片曲線論』(中公文庫、1988年)を書いました。単行本(青土社、1985年)も持っているけれど、文庫版には鶴見俊輔の解説も載っているし、持っていて損はないはず。

小さな新刊書店にも行きました。柿内正午『会社員の哲学[増補版]』(零貨店アカミミ、2023年)を書いました。柿内さんは『プルーストを読む生活』(H.A.B、2021年)の著者で、それを読んでから気になっていたのでした。裏表紙には、

素人が哲学や政治や経済を語るという、本来まったく普通のことが、異様なことのように捉えられるのは非常におかしい。僕は素人として、いけしゃあしゃあと、生煮えの持論を振りかざしてみようと思う。

柿内正午『会社員の哲学[増補版]』(零貨店アカミミ、2023年)裏表紙

とあり、これだけで、楽しみになります。

大型書店にも行きました。吉本隆明+坂本龍一『音楽機械論』(ちくま学芸文庫、2009年[元はトレヴィル、1986年])、三島芳治『児玉まりあ文学集成』第1巻(リイド社、2019年)、〈MUSIC MAGAZINE〉6月増刊号「坂本龍一:本当に聴きたい音を追い求めて」(ミュージック・マガジン、2023年)の3点。二つ目のは漫画で、友人に薦められたので買いました。三つ目は雑誌で、今年3月に亡くなった故・坂本龍一の追悼特集。表紙がとにかくかっこいい。

NHKのBSプレミアムで『犬神家の一族』が放送されていました。横溝正史の原作が大好きだし、市川崑の角川映画も大好きな私は、大変楽しみにしていました。しかも脚本はドラマ『岸辺露伴は動かない』でも脚本を書いた小林靖子さん。期待値は高いです。先週の土曜日が前編、今日が後編。

前編を見た限りでは、原作に忠実で、画になるカットも多いし、佐清役の金子大地さんや松子役の大竹しのぶさんの演技がとにかく上手い。そういう意味で好印象でした。

そして今日の後編です。これがすごい。展開の順番を大幅に入れ替え、佐清の正体が判明するシーンまでの過程も改変。ここまで観たときは不安感マシマシだったのですが、ここから最後までは本当に画面から目が離せなかった。ラストシーンの衝撃は忘れられないでしょう。

以下、ネタバレです。原作とドラマ、両方のネタバレをしてます。



横溝正史の原作では、ドラマ版で後編の後半にあたる部分では、まず①佐清(静馬)の死体(水中逆立ち)が発見され、②琴の師匠・宮川春琴=青沼菊乃と判明、③佐清が珠世の部屋に侵入、④佐清が雪山で追い詰められてピストル自殺未遂し懐から告白書、⑤謎解き、⑥松子自死、⑦終幕、となっている。

これがドラマ版では、①顔を隠した人物が珠代の部屋に侵入、②犯人であると告白し自死する場所を書いた静馬名義の手紙が届く、③静馬でなく佐清と判明、④謎解き、⑤松子自死、⑥金田一と佐清の接見、となっている。

大胆な改変。琴の師匠が菊乃だったというのはこれまでの映像化でもカットされてきたので問題ないが、出来事の順序を入れ替えている。

ドラマ版のミソは②。原作では山狩りによって追い詰められる佐清だが、ドラマでは自分から居場所を知らせている。このことがドラマ版⑥への布石。というのは、原作では珠世の部屋への侵入→山狩りという自然な流れがあり、侵入の動機は自分が犯人だと強調するため、という割と説得力のある展開だったのが、ドラマではわざわざ居場所を子どもを通じて直接知らせるという不自然な動き。これが、ドラマ⑥における金田一の「最も効果的なタイミングで本物の佐清として姿を現し、自分の証言によって事件を解決に導くため」という推理の根拠になるからである。これは原作の弱いところを補う演出である。原作では静間に脅されて従うほかなく、母への想いから下手に動きもしなかった佐清だが、流石になんかやりようあるだろ、という感じもあるのだ。しかしドラマでは「わざと動かなかった」という疑いを発生させている。原作の行間を最大限有効活用しているのだ。

ここに挙げている以外にも改変点がある。松子が、佐清でなく静馬だと気づいていたタイミング。原作では静馬が殺される直前だが、ドラマでは最初から薄々気づいていたとされているし、体を拭く際に火傷を見つけ、決定的に気づく。さらに、謎解き場面での松子の”邪悪さ”と佐清の”善良さ”が強調され、強い対比構造が作り出されている点。これが視聴者を騙す。

さて、ドラマ⑥では、金田一が佐清と接見し、松子の反抗を止めずに静馬との入れ替わりを続けたのは意図的であり、佐清が跡を継ぐためだったのではないかという疑いを投げかける。それに対して佐清が放った一言は、「あなた、病気ですよ」、これである。

この一言は強い。金田一も先の戦争で南方戦線に派遣され、悲惨な目に遭っている。その後遺症は長谷川博己が金田一耕助役を務めた『獄門島』を観ればわかる。その後の『悪魔が来りて笛を吹く』『八つ墓村』では、金田一役は吉岡秀隆に変わり、キャラクターも変化したが、境遇は変わらない。戦争によって狂ってしまった佐清と静馬のことをも考えれば、なんという重い一言だろうか。佐武の首を切断するときのことを語る佐清は、「戦場を思えば容易いことでしたが」と言う。これこそ戦争の悲惨さと共に、佐清と静馬の「病気」を端的に伝えるセリフだろう。これを書いた小林靖子は凄まじい。

果たして金田一の穿ちすぎなのか、佐清の本当の意図を言い当ててしまったのか。いずれにせよ証拠はなく、罪には問えない。だからこそ、佐清のこの一言は金田一に効いてしまう。事件の傍観者として、どこか楽しそうに謎解きをしていた金田一が、ここで初めて「秘密を知ったかもしれない人物」として巻き込まれ、抜け出せなくさせる。金田一は嘆き、叫ぶ。

市川崑は金田一耕助を「天使」と捉えていた。たとえ殺人を止められなくても、過去の因縁を巻き込んだ謎解きによって一族を浄化するために降り立つ存在。しかし、NHK版、特に小林靖子脚本の本作では事件を止められない「敗北者」として描かれる。石坂浩二はにこやかに笑いながら去っていくが、吉岡秀隆は項垂れて悔やみ、絶望して叫ぶ。

蛇足になるが、次回作は何になるだろう。このNHK版では、毎回最後のシーンで、電話や電報の形で次の作品が示唆されていた。しかし本作ではそれがない。なくて正解だろう。あの衝撃的な結末が水泡に帰す。でも気になるのが視聴者の悪い癖。知名度的には『悪魔の手毬唄』だろうが、映像化歴で言えば直後の作品は『迷路荘の惨劇』『女王蜂』になる。ここまでのものを出してくれるなら、できるだけ沢山やってほしいので、『迷路荘の惨劇』でどうでしょう、NHKさん?

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