映画日記#6 『王国(あるいはその家について)』(草野なつか監督、2023年)

衝撃的な映画、としか言いようがない。

休職して地元・茨城に帰ってきた女性が幼馴染の娘を台風の日に橋の欄干から突き落として殺した旨の調書を読み上げる冒頭。取調室らしからぬ部屋。

その後、驚くべきことに、リハーサルの読み合わせの映像ばかりが流れていく。初めは完全に読み上げているだけ、次にちょっと芝居を入れて、そしてほとんど完全に芝居をしている様子。

冒頭の女性「あき」と幼馴染「のどか」が会話する。子供時代のようだ。二人の合言葉を決めている。合言葉は「荒城の月」の歌になる。

子供時代のあきとのどか、台風の日。晴れ間に家を出ようとするのどか、これは「台風の目」なので出てはいけないと言うあき。

二人とのどかの夫「なおと」が3人で会話するシーン。なおとが働く中学校は昔荒れていた、という会話。

あきとなおとが会話するシーン。家庭運営の方法について、徐々にケンカのようになる。

のどかとなおとの会話。攻撃的ななおと。なおとはあきと距離をとるべきだと主張。

あきとのどかが車で娘の服を買いに行くシーン。あきは躊躇うのどかを東京に出てみるよう誘う。

これらの場面のリハーサルが、バラバラに入り乱れ、さまざまな座り方、フレーミングで繰り返される。繰り返されているうちに、芝居の調子が少しずつ変化する。その時々で映る人物の顔が変わり、その度ごとに解釈が変化する。そして読み合わされる場面が前に後ろに少しずつ広がる。そこで新たな出来事が提示され、さらに状況解釈が変わる。

大枠は冒頭の調書で提示されているので観客も考えて再構成する余地がある。それでも、同じ場面を繰り返しているだけ(しかも読み合わせ)なのに、次々に解釈を変更せざるを得なくなる。

そして最後、長い長いロングテイクで全ての場面が順に読み合わされる。ここでやっと全貌が見える感じがするが、映画はまだ終わらない。最後に、あきが手紙を読み上げる。冒頭の調書で存在が示唆されたのどかへの手紙。

最後まで観て、私なりの解釈を持ててもいるがここでそれを書くのは控えておきたい。わざわざ書くようなことでもないというか、言いたいことはそれではないから。

この映画について本当に言いたいのは、これまでも書いてきたその特殊な作りについて。何もない部屋で、読み合わせのリハーサルを3人がし続ける。その芝居が入るレベルや芝居の入り方によって、それは詳しく言えば声の調子や大きさや微妙なほんの一文字くらいの言葉選びの変化なのだが、とにかくそれらが変わることによってこちらの解釈が大幅に変えられていく。さっきから解釈解釈と書いているがより正しくは解釈以前の感じ方の部分が変わると言った方がいいだろう。誰がヤバいのか、誰が正常なのか、なぜそう言うのか、なぜそんな顔をするのか。たとえばあるタイミングである表情をほんのわずかに入れただけで、それがどんな状況なのかについての理解がガラッと変わるのだ。

奇しくも、というか多分全然奇しくもでもなんでもなくそういうふうに作ってあるのだろうが、最後まで観たときに浮かび上がってくる物語の主題もまた非言語的コミュニケーションについてだった。ある人とある人の間にあるコミュニケーションこそが「王国」の領土であり、そのある人は別のある人との間にも王国を築くことができる。が、それが実際の空間にまで及び、その空間は厳密に管理され、しかもそこでは言語的コミュニケーションだけが許され、他人の侵入を拒絶する。そんな圧政を敷かれた王国からは救い出さなければいけない。コミュニケーションの王国は流動的でなければおかしくなってしまう。

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