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「予言の自己成就」と言葉のパワー(エッセイ)

この間、「予言の自己成就」というものを習った。予言が人々に影響を与えて、それが現実になってしまうという、アレだ。例えば、「トイレットペーパーが無くなる!」というデマを信じた人達がトイレットペーパーを買い占めた結果、本当に無くなってしまう、みたいな現状の事だ。

それで、なんでこんな事が起こるのかというのを考えるのが、自分に与えられた宿題だった。分からんわ!という本音はさておき、何か書いて提出しないと単位がもらえないので、とりあえずない知恵を絞ってみる。

結局、言葉に出してしまうのが良くないんじゃない?というのが個人的な結論だ。

言葉に出す時、こういう事を言おう、と一字一句脳内で作り上げてから言う人は少ないだろう。大抵は、自分の感情と反射して、即座に出てくるものだ。怒っている時に、こら!と脳内で確認してから言う人はいない。怒りのスイッチが入ると同時に、こら!と言う。

そして、こら!と言う事で、自分の感情は客観視される。あ、この人怒ってんだなと周りは理解するし、何より自分も、俺怒ってんだなと理解する。感情を実態のないモヤモヤしたものとすると、言葉はそのモヤモヤの美味しいところだけを切り分けて提供する事が出来る。つまり、言葉により自分の状態や立ち位置を、自分自身や相手に教える事が出来るのだ。

先ほどのトイレットペーパーの例を見てみよう。「トイレットペーパーが無くなる」というデマ。この言葉の裏の感情は何なのか。「トイレットペーパーが無くなるかもしれない」という不安の感情だ。それは、言葉にする前はよく分からない不安だっただろう。しかし言葉にした事で、不安の原因は白日の元に晒されたのだ。

さて、これを受け取った人はどうだろうか。世の中の動きに不安を抱いていた人々の分からない部分も、分かるようにしてしまったのである。ああ、トイレットペーパーが無くなりそうだか、私は不安だったのか!と。もちろん、これが本当の解決策とは限らない。しかし、言葉によって晒された情報を、弱っている時は無批判に信じがちだ。こうして、人々を行動へと駆り立てた予言は真実に変わっていくのだ。

というのが、まあ自分の考察紛いの何かなのだが。言葉には分からないを分かった気させるパワーがあるのだ。その取り扱いには十分注意したいし、noteの片隅とはいえ言葉を発信している人間として、その責任には常に自覚的でありたい、と思った。予言の自己成就は、SNSなどの影響で言葉がインスタントになり、ソリッドな言葉が当たり前に使われるようになった現代において、警告的な役割を果たしているのではないか、と思えた。この宿題が教えたかったのは、そういう事ではないかな、と思った日曜の夜だった。(まあ、もう月曜の朝だが。) しかしまあ、これをnoteに上げるので、別の文章を書いて提出しなくては…。あー、今日寝れねーぞ!




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