雑感

 採用2年目も終了しようとしている。
 国語の授業を教材名ではなく資質・能力ベースで語ることができる生徒を育成しようと標榜しているのだが、やはり教材そのものの魅力というものには加工した指導など、上回れるはずがないというのが実感としてある。
 目指すところとしては、生徒が国語の授業で何を学んだかを振り返った時、教材名ではなく資質・能力で語ることができる姿を理想としている。
 しかし、実際生徒は教材名で語るのだろうし、そこに焦点化して指導することが果たして国語科の目標につながるものなのかというところにも疑問を感じてきた。

 今年は本当に忙しい1年だった。働き方改革の真逆をいく働き過ぎ改革だった。だが、これはこれで自分の愚かさを露呈していることに代わりはないのだが、働き過ぎても得たものは確実にあった。やはり頑張った分だけ、その努力の方向性が間違っていたことも分かる。それだけでも大きな収穫だ。

 採用2年目がもう終了しようとしているが、果たして私は今後どのような方向性で教員ライフを過ごしていくのだろう。目標の再設定を試みているのだが、なかなかその目標やゴールが定まらない。よく言えば充電期間だし、悪く言えば青年モラトリアムとでも言おうか。いずれにせよ、目の前のことばかりに遮二無二取り組んでいる状態から早く脱したい。中長期的な自分の生きがいやドラマの裏設定的なものが作れていないので、物語として平坦であり、退屈である。当たり前の幸せといえばそれまでだが、刺激を感じていないのかもしれない。早く中長期的なテーマを見つけ、とかっこつけたワードを使っているが、要は自分が早く熱くなり続けられるものを何でもいいから探したいのかな。
 もはやこの時期に毎年恒例になっているあさのあつこの「バッテリー」を読み、自分が中学生の読後感を追体験する儀式も、すでにアラサーを迎えつつある今ではセピア色を通り越してモノクロである。今では小林秀雄も踏ん反り返っているだけで、私の胸郭に叩き込まれるものではなくなりつつある。

 とりあえず、明日は休みなので洗濯を干して、また次の夜になることを待つ。

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