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一人の人による「死」と「命」

ローマ5:12

どんな民族でも、死があり弔うための宗教があります。一緒に笑い泣いたりしていた人が遠くに行ってしまってもう戻らない、という感覚は、共通。この世からあの世へ、です。

死は、辛く悲しい現実です。

そこから先、普通は、自分もまた同じところに行って、再会できたらいいなぁ、という期待を持つところどまりですが、その再会をはっきりと約束する言葉が書きとどめられているのが、聖書。

「言葉」は大事ですね。この頃は言葉の暴力についてニュースでもしばしば見聞きします。こころを生かすのも殺すのも、言葉のように思います。


永遠の命をもたらす「言葉」

こころを生かす言葉。それを具体的にイメージできたのは、「初めに言があった」(ヨハネによる福音書1章1節) というフレーズからでした。その「言(logos)」が神と共にあり、そして神であったのに、「肉体となりわたしたちの間に宿った」のです(ヨハネによる福音書1章)。イエス・キリストの誕生です。

人間が人間として生きるには、言葉(コミュニケーション)は不可欠であるように思います。それが人と人を結びつけ、神と結び付けてくれるからです。イエス・キリストがまさに架け橋となってくれたのです。

死に至るはずの肉体(sarx) を神がまとったのは、そのためでした。

罪のからだ、死のからだ、とパウロが言っている私たちの「からだ(soma)」は、この「肉(sarx)」でできているのです。それらが、このあとでパウロが詳しく論じられます。

罪と死

そのはじめが、罪と死が、全人類に入った、ということ。

このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。
ローマ人への手紙5章1節

「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり」というところ、旧約聖書を知っている人は、「それはエバだ」と思いつくでしょう。蛇に誘惑されて、禁断の木の実を食べたのは、まずエバだったからです。

でもパウロは、このあとの話でアダムの罪しか話題にしていません。「ひとりの人によって」というのは、アダムなのです。

では、いったい何が死に至るような罪とされたのでしょうか。

善悪の知識の木がエデンの園の中央に植えられていました。「食べたらその日に必ず死ぬ」と警告され、食べてはならないと禁じられていたものです。それを、「ぜったい死なない!」「食べたら神のような知恵者になる!」とそそのかされて、まずエバが食べてしまいます。そして、アダムも。

そこからが問題です。神の言葉に反する行為をして、どうしたわけか、自分たちの裸であることが恐ろしく感じるようになります。茂みに隠れて、神の尋ね求める声に応答しません。そればかりか、アダムは、禁断の木の実を食べた責任を神に押しつけるような発言をするのです。「あなたが与えた女が取ってよこしたので食べたんだ」

これが、一線を越えたときでした。過ちを犯したことが「死に至る罪」ではありません。過ちの原因を神のせいにして、自分は悪くない、と言い張ってしまったこと。それでした。

こうして、罪がこの世に入り、罪によって死がはいってしまったのです。でも、すぐに彼らが肉体の死を迎えたわけではありません。心が、完全に断絶してしまったのです。それが、「死」でした。

一線を越えた地点に逆戻りできる?

そのために、迎えに来てくれたのが、イエス・キリストだ、と聖書は伝えています。

問題はただ一つ。わたしたち自身がどうしたいか、です。

アダムの後をそのまま行きたいのか、それとも、ここで振り向いてみるか。

「すべての人が」罪を犯した、とパウロは大胆に言います。つまり、私もそうでしたが、神と無関係に、自由にしたい、と生きていたんですね。

そして、こんな自分にしたのは神じゃないのか。こんな世の中にしたのは神じゃないのか。私は何にも頼らず、自分の力で生きるぞ。そんなふうに頑張ってやってたのです。

イエス・キリストの話を聞いた後の印象は、自分の前に一本の線がある、ということ。線のこちら側にいたら、いつまでも同じ自分のまま。変わるには、その線の先に一歩踏み出さなければならない。

一線を越えて歩んだアダムと同じ側にい続けるかどうかの選択が、自分に与えられていた、ということです。もちろん、その話を聞かなければ、線があるなどと見えないままに過ぎ去っていたわけです。


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