見出し画像

そのココロ、信じられる?

インドネシアの教会の青年たちに、「見ず知らずの人から突然、愛している、結婚してくれ、と言われて、結婚する?」と尋ねたことがあります。彼らの答えは当然のように、「ありえない!」でした。

その人がずっと善意でいてくれるのか、自分にひどいことをしないか、愛し続けてくれるのか。ちょっと知り合ったくらいでは、どこまで信じていいのかわからないものです。

こちらがひとめぼれしてしまったというのだったら、また話が違いますが。

「神」も、そうだと思います。パウロが伝えている神は、

①恵みと平安を与えてくれる、
②悪の時代から救ってくれる、
③そのためにご自分を私たちに与えてくれた。

まだ、手紙としてはあいさつの部分なのですが、その中でシンプルに神を紹介しています。

ガラテヤ人への手紙 1章 3-5節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。
キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。
この神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

ガラテヤ1章1-2節(下リンク)の続きです。

恵みと平安

聖書を手にとって読もうとする人は、たぶん小説を読もうとするのとは違った気分でページを開き始めるのではないかと思います。

私の場合は、好意を抱いていた女性から勧められたことが、自分から聖書を読みはじめたきっかけでした。。。かなり邪道なスタートだったかも、です。

画像1

好きでもない人、信頼していいのかどうかわからない人から勧められていたら、おそらく、絶対に読み始めなかっただろう、と思います。

ガラテヤの人にとって、パウロの手紙の言葉は、どんなふうに受け止められたでしょうか。神が「恵みと平安」を与えてくれる存在であることを、パウロの言葉を通して信じることができたのでしょうか。

聖書にある「恵み」は、猫に小判。「こんなヤツにこんな高価なものはふさわしくない、それでもさしあげる」じゃないですが、愛されるには全然ふさわしくないのに愛している、という意味。神の基準からしたら、私などは絶対に目にかけてもらえないのに、それでも、愛してくれる、という。「父なる神」だからね。

実際、私の親がそんな存在として身近にあったから、私にはイメージしやすかったかも。私は愛されるに値しないような存在。そんな私でも愛してくれる。それが、恵みです。

画像2

平安は、安心。コロナでいったい自分はどうなるだろうか、って思う時でも、死から復活したイエス・キリストはそれを乗り越えさせてくれる、という安心があります。自分が思い描くような解決方法ではしてくれなかったとしても、結果オーライ、となる。そう信じられるからこその、安心、平安。

乗り越えることのできないような試練に合わせられることはない。そう信じたいから信じる、だけじゃないものが、パウロの言葉にはあります。パウロが、「あなたがたにありますように」と祈っているのは、自分がそれを受けてきている、という裏付けがあってのことなのです。

恵みと平安を祈っているパウロ。ガラテヤの人にはその心が信じられたでしょうか。もっと言えば、恵みと平安を賜るという神を、信じられたのでしょうか。そして、今これを読んでいる私たちは、パウロも神も、信じられないでしょうか? 私はあなたのために祈っています、と言っても、私は信じられないでしょうか。。。。

画像3

悪の時代から救ってくれる

第二点目。今の時代は悪? 私たちの目から見ると、それなりに良いこともあり、もちろん悪いこともあります。でも、神さまの目から見ると、今の時代は「死」に至る悪いものだ、というのです。

この世が初めからそうだったわけではない、とも読めます。「今の時代」が悪いのだ、と。聖書の一番最初の「創世記」を見ると、神が創造なさった地球は、最初は非常に良いものだった、と言われています。エデンの園という楽園があった時代です。ところが、アダムとエバが神への不信に陥ったことで、神と断然してしまいます。人を神に結び付けているのは、まさに信じること、でした。そしてエデンの園から追い出され、永遠の命を持つことができなくなってしまいます。

画像4

永遠に生きるのは、不老で人生いいことづくめだったら、それは良いものでしょう。でも、そうじゃない状態で永遠に生きることは、かえって、苦しいだけだろうと、予想がつきます。今の時代にある、今のままで永遠の命を得たとしても、決して、幸せだとは思えない。それが、「悪の時代」です。

そこから救ってくれる、という神、キリスト。それが、恵みと平安を信じるかどうかの、具体的な中身だったのです。本当に?でも、いったいどうやって?それが第三点目。

画像5


そのためにご自分を私たちに与えてくれた

宗教が提示する「救い」は、ふつう何か条件があります。ツボや印鑑に始まって、いろんな修行。あるいは何かを唱えるだけ、という条件の場合も。

パウロは、ここで私たちに課せられている条件にはふれません。ただ、「キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです」とだけ。

画像6

福音書を読むとくりかえし、「わたしと父はひとつ」とキリストが言っているのがわかります。一つになろうとするのではなく、もう、完全に一つ、と。一つになりたいという思慕と意思が、聖書の教える愛ですが、父なる神とキリストはその愛が完全な状態でひとつになっている。それが三位一体の神の本質、、、と、わかったようなわからないような。ともかく、人間を超越していることだけは確かです。

この神が、人間となって生まれ、十字架で死んだ。イエス・キリストを見れば、神ってこんな人なんだ、とわかる。そのキリストが、「私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。」十字架の死が私たちの罪のためだった、ということを、最も短く言い表している一文です。

画像7

今の悪の時代から救われるためには、私たちの罪が帳消しにされなければならない。「超消し」「チョー消し」かもしれないですね。でも、「私たちの罪」って何だよ、と、どうしても思ってしまいます。これが最初、私にもぜんぜんわからなかったことでした。「今の悪の時代」と言われると、まあ、そういう面もあるか、と思っても、自分のこととして、「私たちの罪」って言われると、「???」

親を親とも思わないで生きている人があったら、たとえ犯罪を犯していないとしても、ひとでなし、と思われてもしかたがない。それが私だったのですが、それ以上に、神を神とも思わないで生きていることが、聖書の示している「罪」。もともと、的外れ、という意味の言葉だそうです。

画像8

その的外れな生き方をしていたことを、神が、帳消しにするために、イエス・キリストを十字架に。いや、ここでは、「キリストが...ご自分を与えてくださいました」とあります。無理強いされて十字架にかけられたのではなく、自分から進んで、十字架の死を受けた。

死に瀕している子を見て、その命が助かるなら自分の命を差し出してでも助かってほしい。その親心の究極の思いが、キリストに現わされていたのです。

そのココロ、信じられますか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?