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「愛」の定義

人を好きになる、って、不思議です。一緒にいたい、という気持ちがこうじて、ずっと一緒にいたい、となっていくのですが、ずっと、となると、そこにはまたそれなりの問題が、、、、


インドネシア語で、kasih と cinta と二つの言葉があります。どちらも普通は「愛する」と訳されるもの。cinta は恋愛で、聖書で使われる愛は kasih がほとんど。教会の青年女子に、この二つの言葉はどう違うの、と尋ねてみました。そしたら、kasih は大きくて、すべての人に向けられるもの、cinta は一人だけに向けられるもの、と。

小さい時から聖書を学んでいる子たちにしたら、kasih は特別、という感覚が強いんだろうな~、って思います。大人になってから初めて聖書を読み始めた私とは、違う。。。

聖書の愛にしても、恋愛にしても、こんなことかな~、と最近思うのが、「愛とは、強制することなしに一つになりたいという思慕と意思で、犠牲を伴う行動を促すもの」。

一緒にいるのはいいけど、互いに相手を強制的に支配したいと思いながら一緒にいても、決していいことはないわけで。支配、と言うと強すぎるけれど、自分の思うように相手が動いてくれないと嫌、いらいら、というのが積み重なっていくと、いつか爆発しちゃう。

新約聖書の中で、「愛の章」と呼ばれるところが、以下。

1,たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
2,たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。
3,たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
4,愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
5,礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
6,不正を喜ばずに、真理を喜びます。
7,すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
(コリント人へのパウロの手紙第一 13章から)

愛は、で最初に来るのが、寛容。これができるようになったら、こわいものない、っていう感じです。「ずっと一緒に」がちゃんとできるようになるのも、これがキーポイントなんでしょうね。

心の深いところで、自分も、寛容を受けていたんだ、と信じることができるときに、相手に対する寛容も、少しずつ身に着けていくことができるのか、と、青年女子たちを見ながら思うのでした。

キリストが、リアルに、自分の罪のために十字架にかかってくれたことで自分が赦されている、という、究極の寛容を信じるときに、永遠の愛がわたしたちの内にも生まれるんだ、と。

神さまが、まず私たちと一つになりたい、と、まず思ってくれていて、しかも、チカラヅクではなく、最高の自己犠牲によって、ということを信じられる、受け入れてなんだ、と。

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