見出し画像

はじロー(14)血が流される

はじめて読むローマ人への手紙3章25-26節

血が流される

聖書では、血はいのちと言われます。日本語でも「血が流される」と言えば、命が失われることを意味します。

以前、人工透析に関わる仕事をしていて、血を見ることは日常でしたが、いったん仕事場を離れると、血は生活の場からは注意深く取り除かれていて、ほとんど見ることはありません。スーパーで売っている肉の色は血の色だ、ということすら考えられないほどです。インドネシアの市場で、屠殺され血を流している家畜がすぐ目に入るのとは、全然違う世界です。

血に接することのない世界から聖書の「血による宥め(なだめ)」という世界に入ると、ビックリしてしまうかもしれません。日本の宗教は、生臭いものは一切出てこないからなおさらです。

血がどうして宥めになるのでしょうか

凶悪事件の犯人に対する被害者の家族の感情を考えると、少し感じがつかめるかもしれません。極刑は、犯された大罪に対する償いですが、同時に、刑の執行がないなら怒りが収まらない、鎮まらないのです。宥めは、罪に対する怒りを鎮めることです。

神は、何が壊されたことに対して、怒るのでしょうか。たぶん、一言でいうなら、愛が壊されたことに対して、なのだろうと思います。神ご自身は、私たちと一つにありたい、いつも一緒にいたい、ととても強く願っているのに、それを拒否して、愛の関係を壊してしまっている。愛を壊すことに対する怒りは、私たちには想像することもできないくらいなのだ、と、聖書を読むほどにわかってきます。

聖書の神は、ただ気前よく、人が求めるモノを与えてくれるおじいちゃんのような存在なのではありません。正しくないことに対する厳粛な態度をはっきりと示す方でもある、ということが、キリストの犠牲からわかるのです。神の正しさは、神がどんなに罪を憎み、怒っているかに表されています。

自分がどれほどの「罪人」なのか、ということは、パウロのこの手紙の3章前半までで十分に説明されていて、後はそれを認めるかどうか、というところなのですが、そのために私の背中を押してくれたのは、キリストの犠牲でした。

神は、怒りを私にぶつけ、私が罪人であることを認めさせようとはしなかったのです。その代わりに、私のために払われた犠牲を示してくれたのでした。怒りを、キリストが受けて、血を流してくれたのです。

その血が、私に語りかけます。その血によって、私も義とされることを知るのです。

私たちは、理屈だけで動くものではありません。むしろ、感情に押し出されて、行動を起こすことが多いものです。

血は、私たちの心を大きくざわつかせます。それで、できるだけ避けようとしてしまいます。でも、キリストの血を避けて通ることはできないのです。生きている間に、キリストの血を真正面から見据える時を持つことが、必要です。

キリストの十字架を正面に置くことは、かなりきつい作業なのですが…


ローマ人への手紙3章25‐26節

神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。
すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?