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はじロー(7) 民族それぞれにある律法

ローマ人への手紙2章12-16節

外人。インドネシア語で「オラン・アシン」。アシンとは、外国の、なのだけれど、その他に日常で「馴染みがない、奇異な」という意味でも使われます。

外人とは、奇異な人、です。

ユダヤ人の食生活だけ注目したら、ものすごく多い食べ物のタブーがあって、奇異なことになるかもしれません。イスラム教の豚肉を食べないなどやっぱり食べ物タブーは、日本では今となっては変な習慣。精進料理が普通な頃もあっただろうに、です。

ただ、もしユダヤ人生活のいろいろな場面に遭遇していたら、印象は変わってくるかも。パウロの時代にも、ユダヤ人の生活にあこがれてユダヤ教に改宗した異邦人、あれこれと真似をしていた「神を敬う人」たちは、少なくなったのです。

旧約聖書の「律法」には、祭儀の細かな決まり以外に、人間としてどうすべきかという倫理の教えもあって、それはとても普遍的な教えなのです。

たとえば、

あなたの敵の牛やろばが迷っているのに出会った場合、あなたは必ずそれを彼のところに連れ戻さなければならない。
あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。
出エジプト記23章4‐5節
あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。
また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
レビ記19章9‐10節

これが一言で言い表されたら、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19章17節)敵を愛しなさい、という教えの実例が、これらです。敵を好きになりなさい、というのではないことがよくわかります。

紀元前15世紀にモーセが書き記したこの律法が、イスラエル・ユダヤ人と接したことのある異邦人に広まった、という可能性もあるし、これらと全く同じではなくても、それぞれの文化の中にある倫理的な教えは社会の維持のためにたいせつだったろうし、必ず存在するものです。それらは普遍的な律法と呼べるのだろうと思います。

パウロが「異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです」と言っていることなのだろうと思うのです。

どんな民族でも、宗教があります。宗教には、そうした倫理と人間が心から願うことがらが表されているだろうと思います。彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。

ただ、問題もあります。時々、行き過ぎた責め合いに陥ることなのです。また、神の律法が指摘する過ちについて、「それはイスラエルの習慣だ」と、自分は自分だとして自己弁護をすることもあり得ます。

もし、世の終わりの神のさばきの時が来たら、私たちは神にどう弁明するでしょうか。習慣の違いではない、人間としての生き方について、ほかの民族に目を向けることも、大切だろうと思うのです。なんて奇異な、とばかり思わず。。。


 律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです。律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。
 ローマ人への手紙2章12-16節


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