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はじロー(17)私の本当の出どころ

はじめて読むローマ人への手紙4章1-5節

私の本当の出どころ

父祖の歴史は、なかなか辿れるものではありません。だから、飛び抜けて古い記録があると言っても、そうすぐには信じがたいものです。

数千年もの系図がある、というだけが信じにくい理由ではありません。自分とは関係ない、と思い込んでいたら、信じようなどとは思えないものです。

もっと違うこともあります。例えば、大人になってから急に、本当の親は別にいる、と言われても、面食らうものでしょう。信頼すべき土台が急に砂のように思えてしまうかもしれません。信じがたい、というより、受け入れがたい、と言ったほうがいいかもしれません。

本当の父祖がいると聞かされた時に、慣れ親しんだ世界がどんなふうに見えるようになるのか。実は案外と、一つに縛られない、もっと豊かな世界に見えてくるものなのかも。いや、実際にそうです。

紀元前2千年まで辿れる系図があって、その父祖の物語が伝えられていて、そこに人生のターニングポイントがあった。それがそっくりそのまま、今の自分の人生のターニングポイントに重なってくる、という記録。その父祖が、私の魂の本当の父祖だったのです。

どこかで聞いたことがあるような、と思ったら、「ネバー・エンディング・ストーリー」。

それはファンタジーだけれど、アブラハムはファンタジーの人物ではありません。子どもがないまま、相続者がいないままに、すでに高齢となり、可能性など全くない状態で、神が子孫の約束をする。弄ばれていると怒っても不思議じゃないようなことだけれど、相手は創造者。アブラハムにとっては、真剣そのものの約束が、創造者から来ます。

中近東の乾燥した地で見上げる夜空の星のように、子孫が増える。

ファンタジーですよね。満天の星空に響く神の約束。

現実に信じがたい約束を、期待をもって信じます。相続者として心に決めていた忠臣の部下を、相続者候補から退けます。

それで、義と認められる。心が真っ直ぐだ、と、神に認められる。真っ直ぐに神に向いている心だ、と。

神の声を聞くほどなんだから、アブラハムは超がつくほどに真っ直ぐな心だったんだろう、とも思います。私だったら、心の中のことだから明日はわからない、いつ心変わりするか知れない、と心配してしまったかも。

自分が今信じた心すらも、明日はどうなるかわからない、と思ってしまうのです。だから、他者にも、その信じたという思いを証明してもらおうじゃないか、と、私たちは相手に突きつけてしまうんですね。際限なく。

神にはその必要がなかったみたい。アブラハムは信じた。神はそれを義と認めた。シンプルすぎ。それが、聖書にある記録です。

心変わりするかもしれない、などとごちゃごちゃ考えてしまう私でも、神から「義と認め」ると言ってもらえるのか。アブラハムだからそう言われた。私は無理かも。だからもう少しごちゃごちゃ考えて結論が出たところで信じよう。。。。これも際限がないのです。そのマイナス・ループから救われたのです。

神は、信じた私を受け入れてくださったのです。

だから、本当の自分の出どころがあったのだ、と知ることから、一歩踏み出すだけです。それは、今ある自分を否定することではありません。今ある自分を、あるがままに受け入れてくれる天の父があることを知って、その事実を受け入れるだけです。自分が受け入れられるために、どれほど大きな犠牲が支払われたか。自分が何かしたのではありません。すべては、神がなして下さったのでした。

ローマ人への手紙4章1‐5節


それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。聖書は何と言っていますか。
「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」
とあります。働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。


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