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キリストの終末預言(1)

将来のことを知りたい。これからどうなっていくのか、どうすべきか、知りたい。個人のレベルから民族のレベルまで、重要な局面に立たされた時に、この願いが起きるものです。

占いがなくならないことも、そのあらわれでしょう。「信じるわけではないけれど」と言いつつも、なにかしらの心のよりどころを求めたくなります。占いによって語られた言葉をどうするか、自分が決めるのだから、友達の意見を聞くのと同じ、、、なのでしょうか。

民衆の熱狂的な支持を受けて、「イエスを王として擁立して、神の国を立ち上げるのだ」と、ユダヤ人の中心地エルサレムに意気揚々とやってきていた弟子たちに、驚くようなことが語られます。そこから、イエス・キリストの終末預言がスタート。

預言とは

「預言」は、字のごとく「ことば」を「預かる」。聖書の預言は、神から預かった言葉です。予言とは違うものですが、預言と訳される新約聖書のギリシャ語でプロフェティアは「予め明らかに示す」という意味。むしろ「予言」に近いかも、と思えます。

旧約聖書では、預言者ナービー(ヘブル語)はスポークスマンの意。これが聖書の「預言」の意味を表しているようです。王である神のことばを会見場で伝える人。特に、神の民への指示、勧告、警告を伝えることで、民がそれに聞き従った場合、従わなかった場合に、どのような結果がもたらされるか将来に関する定めが含まれるため、「予言」と取り違えられてしまうのかもしれません。

「終末」預言と言っても、ですから、人類が世の終わりにどうなるか、という予言ではなく、神の民に対する教えと警告が、ここで伝えられているのです。対象は、おもにユダヤ人。おもに、と言うのは、ユダヤ人を取り巻く周囲の人たちも、さらにその関係者も、神は決して無視しないわけですから。つまり、最終的には全人類に関わってくる話になります。

マタイはそうした話の中でも、特にユダヤ人関連の内容に絞って話題を選んでいるのかもしれません。他の福音書、マルコ、ルカとは違う内容が含まれます。ボリュームも格段に多い。ユダヤ人の結末に関わる重大事に、多くの字数を当てることは、ユダヤ人向けに福音書を書いたマタイにとっては当然のことでした。

イエス・キリストはイスラム教も認める預言者?

「キリスト」という称号は、「油を注がれた人」の意味でした。イスラエルでは、神の公務についている「王」「大祭司」「預言者」が、任職に油を注がれたのです。

つまり、「イエス」という人物が、ユダヤ人社会の中で「キリスト」だと認められたのでした。

その理由は、第一には、バプテスマのヨハネの働きがあります。

ヨハネは、神殿の一人の祭司長の家庭に奇跡を伴って生まれ、成人してからは荒野で預言者として活動します。風貌は、「らくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた」(マタイ3:4) とあります。これは、イスラエル国のいにしえの大預言者エリヤを彷彿とさせるものでした。

単刀直入に「罪を悔い改めよ」と、預言者の伝統にのっとった語りで、当時の領主への批判も恐れずに語ります。その結果、捕縛・投獄され、牢死してしまったのです。

このヨハネが、イエスを指して、「神の子」であると証言したことで、民衆は、イエスに目を向け始めたのです。

もっと大きな理由がありました。イエスが、不治の病をもなんなく癒すことができたからです。そればかりでなく、死んでしまった人も生き返らせた。

「イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。」(マタイ4:23-25)

生まれつきの障碍を持っていた人すらも癒されます。このような奇跡は、旧約聖書に預言されていて、それらを聞き知っている者にとっては否定しようのないものでした。それが決定的な証拠となったのでした。「この人は、神から来た人だ」と民衆は大喜びだったのです。

しかも、民衆が聞いたイエスの教えは、他の宗教家たちの語り口とは全く違ったのです。ユダヤ教の教師たちの伝統は、「昔の教師の〇〇はこう言った」と、言い伝えを多数暗記してそれを披露する、というものでした。でも、イエスは、「わたしは言う」と前置きをして、まるで権威ある立法者のように語ったのです

イエス・キリストの「預言」は、立法者としての権威を帯びながら語られたものとして、非常に特異なもので、これも伝統を破るものでした。

後日、ユダヤ教の毎週の礼拝日である「安息日」にイエスが病人を癒した、ということで、宗教家たちからは、にせ預言者として憎まれていきます。伝統的な言い伝えにあった「安息日」の規則をイエスが無視していたからです。

けれども、民衆は、イエスが神から来た人だ、と、強い確信を抱いて熱狂的に迎え入れているために、イエスを捕らえることもできない状況。イエスを殺したりしたら、民衆が蜂起して宗教家たちを襲うほどの熱気がユダヤ民衆を覆っていたのでした。

イエスは、ユダヤ民衆には大預言者だとされていたのです。

7世紀に起こったイスラム教においてイエスが預言者の一人として認められているのも、こうした歴史的な背景があったせいでしょう。

マタイ福音書の中の他の説教との関係

福音書の最後の結末に近い部分でまとめられたイエス・キリストの説教集ですから、ここまでの全体の流れも関連します。

最初の説教集、山上の説教(マタイ5章-7章)でも、「地を受け継ぐ人」のさいわいが語られていました。時代が変わった時、地上の天国に入る人です。将来の迫害、天地が滅びること、地獄の火、偽預言者や不法を行う指導的立場にあるらしい人への言及もありました。これらは現在の「天国」でも適用され得る教えですが、終末説教に通じるものです。

次の使徒派遣説教集(マタイ10章)では、イスラエルに対する福音宣教が、そのすべての人に憎まれる結果ももたらすことが予告されています。使徒たちの福音宣教がそのすべてのイスラエルに及ぶ前にキリストの再臨があるというのは、期間がかなり短く限られていることを予想させるものでした。水一杯に対しても必ず報いがある、とは、よほどの困難の中での貴重な一杯の水のようです。これらも、終末説教の内容に通じます。

マタイ福音書の中心部分にある「奥義の天国」説教集(13章)。イスラエルのキリスト拒否が決定的になって天国の存在が奥義となったことの教え。ここですでにはっきりと世の終わりについての教えが出てきています。悪が最終的に裁かれるのが、世の終わりなのです。ユダヤ人だけではなく、すべての民族が神に見出されて集められるその時の嬉しさが、譬え話で伝えられています。

終末説教の一つ前は、罪の赦しの説教集(マタイ18章)でした。天国にふさわしい幼子をつまずかせるくらいなら、海の深みに沈められる方がいい、とか、ギョッとさせられる教えがあります。罪を赦すことは決して簡単なことではないことを実感させられるものです。けれど、その簡単ではない赦しのために必要な払いきれない代価を、神だけが用意できることが暗示される譬えで締めくくられているのです。最後の裁きも暗示されます。

そして、マタイが記している5つのキリスト説教集の第5番目、最後に語られているのが、(24,25章)。これも弟子たちへの教え。直前の23章では、ユダヤ教の指導者層への強烈な批判が語られています。弟子たちは、それらをまるで聞いていなかったかのように、ユダヤ教の中心である「宮」にあらためて驚嘆、賛美するのです。彼らの心は、やがてこの「宮」を支配する側に立つ時を思い描いていたのでしょうか。

この世の終わりに臨んで、大きく二つの心構えが説かれます。一つは「気をつけていなさい、偽キリストが現れる」(24:4,5)、もう一つが「よく聞いておきなさい、人の子が戸口まで近づいている」(24:33,34)。

これらの勧告がなされたのは、神殿を見て弟子たちが感激していたことがきっかけでした。そんな弟子たちに対する、驚くような言葉がイエス・キリストから発せられるのです。

イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。(マタイによる福音書24章1,2節)

世の終わりがあることを前提に、イエス・キリストは弟子たちに語り始めます。

マタイ24-25章区分

マタイ24-25章
I. イエス・キリストへの弟子たちの質問 (24:1-3)
II.偽キリストに気をつけなさい (24:4-31)
 A. 「しるし」"終わりではない" と "生みの苦しみの初め" (4-8節)
 B. 7年間の患難時代前半の3年半 (9-14節)
 C. 7年間の患難時代後半の3年半 (15-31節)
III.よく聞いておきなさい、人の子が戸口に (24:32‐25:46)
 A. キリストの空中再臨に伴う携挙の預言 (32-41節)
 B. 弟子たちへの忠告: 目を覚ましていなさい (24:42-51; 25:1-30)
 C. 最後のさばき (25:31-46)


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