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ローマ人への手紙の目的 ノート

「わたしたちはいかにして生きるか――手紙の受取り手と手紙の目的――」

宛先

ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同(ローマ1:7)。

16章をみると、プリスカとアクラの「家の教会」が記されています(16:5)。皇帝クラウデオの命令でユダヤ人がローマから追放されたとき、彼らは一時期コリントに来ていました(AD50) 。その彼らが、クラウデオ帝の死後(AD54)、ローマにもどったわけです。

AD57年に書かれたと考えられるこの手紙は、そうした家の教会を含んだ「聖徒一同」への手紙でした。

もともと、ローマで教会がスタートしたのは、ペンテコステ(使徒2章)のときに弟子になった者たちがローマに戻って活動を始めたことからでしょう。ユダヤ人主体の教会です。

使徒行伝の記事の流れから想像すると、ローマでも、異邦人の中でユダヤ教に共感する異邦人、神を敬う人々がキリスト信者となり、教会に加わってきていただろうと考えられます。そこに降ってきた、ユダヤ人追放令。異邦人だけが残る教会となってしまったはずです。

パウロがこの手紙を書いた当時、どれほどのユダヤ人がローマにもどっていたのか、よくわかりません。けれども、ユダヤ人と異邦人との比率、それ以上に両者の関係は以前より微妙なものになっていたのではと想像されます。

ただし、彼らの間に、目立ったトラブルがあったわけでもないだろう、とも思えます。手紙の差出人として、パウロはしばしば随行者の名を連名にして記しますが、それらは、あて先の教会に明確なトラブルがあって、それに対しての真理の「証人」として、二人、または三人の名で手紙を送ったものと考えられます。

それが、このローマ人への手紙にはありません。パウロ一人の名前で送られています。エペソ人への手紙も同様です。

内容として、「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて」(ローマ13:13)、「信仰の弱い者」(ローマ14:1)に関する食物問題が取り上げられてはいますが、それが教会の活動に妨げになるほどに大きな対立や問題になってはいなかったのではないでしょうか。

ローマは、地中海世界の中心地です。帝国の首都です。パウロの活動の視野は、帝国の西に向けられ始めていました。そのビジョンの中で、ローマという地は、重要な位置を占めます。

同時に、「異邦人宣教」の進展です。ユダヤ人をはじめ、という歴史的な宣教の段階を経て、異邦人への直接的な宣教が拡大します。異邦人教会の役割がクローズアップされていく時期になっていただろうと考えられるのです。

それらを次に、詳しく見ていきます。

目的

なぜパウロは、この手紙を「ローマの聖徒たち」に書き送ったのでしょうか。まずは、手紙を書いたときのパウロと、ローマの諸教会の様子を、さらに詳しく見てみます。

使徒18:1-2
その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。 2 そこで、アクラというポント生れのユダヤ人と、その妻プリスキラとに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるようにと、命令したため、彼らは近ごろイタリヤから出てきたのである。
使徒18:18
さてパウロは、なお幾日ものあいだ滞在した後、兄弟たちに別れを告げて、シリヤへ向け出帆した。プリスキラとアクラも同行した。パウロは、かねてから、ある誓願を立てていたので、ケンクレヤで頭をそった。

ローマ人への手紙が書かれたと考えられているのは、パウロが第三次伝道旅行でコリントに滞在していた時です。

第二次伝道旅行の中ではじめにコリントにパウロが足を踏み入れたとき、そこで出会ったのがアクラとプリスキラでした。この滞在中、ずっと彼らと同居していたようです。迫害のためにコリントを去るときも、この夫婦と一緒でした。このあと、この夫婦はエペソにとどまり、パウロはエルサレムに戻ります(使徒18:22、26)。

第三次伝道旅行で、程なくエペソ入りをしたパウロですが、その時にはすでにアクラとプリスキラは、ローマに戻っていた様子です。ユダヤ人がローマから追放されていた期間は、4〜5年でした。

使徒19:21
これらの事があった後、パウロは御霊に感じて、マケドニヤ、アカヤをとおって、エルサレムへ行く決心をした。そして言った、 「わたしは、そこに行ったのち、ぜひローマをも見なければならない」。 22 そこで、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストとのふたりを、まずマケドニヤに送り出し、パウロ自身は、なおしばらくアジヤにとどまった。
使徒20:1
騒ぎがやんだ後、パウロは弟子たちを呼び集めて激励を与えた上、別れのあいさつを述べ、マケドニヤへ向かって出発した。 2 そして、その地方をとおり、多くの言葉で人々を励ましたのち、ギリシヤにきた。3 彼はそこで三か月を過ごした。それからシリヤへ向かって、船出しようとしていた矢先、彼に対するユダヤ人の陰謀が起ったので、マケドニヤを経由して帰ることに決した。

パウロが御霊に感じて、ぜひローマをも見なければ、と考えた中身は何だったのか。それが、ローマ人への手紙の中で記されていることだったでしょう。3か月滞在していたギリシャで、この手紙が書かれたと考えられています。

■ ローマ1:1
キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから――

まず、もう一度この手紙の送り主の確認。「キリスト・イエスの僕」「(キリスト・イエスに)召された使徒」であること、神の福音のために選び別たれた者であることが、簡潔に記されています。

ローマ 1:9-12
わたしは、祈のたびごとに、絶えずあなたがたを覚え、いつかは御旨にかなって道が開かれ、どうにかして、あなたがたの所に行けるようにと願っている。このことについて、わたしのためにあかしをして下さるのは、わたしが霊により、御子の福音を宣べ伝えて仕えている神である。わたしは、あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいからである。それは、あなたがたの中にいて、あなたがたとわたしとのお互の信仰によって、共に励まし合うためにほかならない。

パウロの熱望。理路整然と書かれている論文であるかのようなローマ人への手紙ですが、実は、パウロの燃え滾る熱心さがあふれ出ている手紙です。

パウロの願いは、「力づけたい」ということです。この「力づけること」は、最終的には神に帰せられるのですが(16:25)、手紙の最初と最後に、さりげなく、しかも熱意を込めて記されている言葉です。パウロがこの手紙を書いた目的のひとつは、「力づける」ことにあるでしょう。ローマの聖徒たちは、力づけられる必要があったとも言えます。

ローマ 1:13-16
兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしはほかの異邦人の間で得たように、あなたがたの間でも幾分かの実を得るために、あなたがたの所に行こうとしばしば企てたが、今まで妨げられてきた。わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。

「ローマにいるあなた方にも、福音を宣べ伝える」ことが、なぜ必要なのでしょうか? 他の人が福音を伝えてローマにも教会が建てあげられつつあるわけですが、パウロは自分が語らないでは気がすまなかったのでしょうか? この手紙を書いた当時、パウロはまだローマへは行ったことがなかったのですから、実際にローマに行く前に自己紹介として自分の伝えている福音を詳述しておく必要を感じたのでしょうか。

「福音を宣べ伝える」ことは、すでにキリストを信じている「教会」にも必要であることを、パウロははっきりと認識していたのだと考えられます。福音こそが「救いを得させる神の力である」と確信しているからこそ、いまいち力を発揮できないでいる状態にある教会、ダイナミックな成長と活動とを期待されている教会には、福音が伝えられなければならない・・・パウロの狙いは、そこにあるように思えます。

もちろん、パウロはこの手紙の中で、福音をもっとも理路整然と説明しているとは言えますが、繰り返しになりますが、この説明は、「未信者」に対するものではありません。はじめて福音を聞く人に対しての説明、というものとも違います。すでに伝え聞いている福音の、その世界全体を鳥瞰しながら、罪の世の中で生きている信者がますます力づけられることを目的にしている内容と構成になっているのです。

未信者の方が、ローマ人への手紙を最初に読んでも、すぐに理解しにくいのはそのためだと思います。キリストの福音を手短に紹介するいくつかの聖書箇所を、しばしばこのローマ人への手紙から抜き出してお話しすることがありますが、それだけですぐわかる人というのは、たぶん、それまですでにいろいろと神について、キリストについて、あるいは人間の罪深さというものについて、思い巡らせていたことのある人でしょう。まるっきりはじめて聖書を読む人が、突然、たとえば「罪」の事を最初に突きつけられても、戸惑うばかりなのは明らかです。

ローマ2:17
もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇とし、

ローマの教会の構成員の一部は、ユダヤ人でした。ユダヤ人問題について、パウロは特別の思いを込めながら、手紙の最後まで書き綴っています。

ローマ9:2-3
すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。

ユダヤ人問題のひとつは、民族の救いということです。冷静そうに議論を進めてきているように見えるパウロが、ここにいたって、ユダヤ人に対する熱情を噴出させます。もちろん、自分もユダヤ人であるということも関係しているわけです。ローマ教会の半分がユダヤ人だったとしても、残りの半分は異邦人です。異邦人クリスチャンは、パウロのこの突然の書き方の豹変振りに接して、戸惑わなかったでしょうか。異邦人への使徒であることを公言しつつも、パウロは同族の者たちというだけではなく、「神の民」であるユダヤ民族の救いのために、非常に腐心していることもまた事実なのです。

ローマ10:1-2
兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。

自らがパリサイ人で、ユダヤ教の指導者であったパウロは、ユダヤ人の問題を個人的にもよく理解していました。救いに関して、ユダヤ人もギリシャ人も、区別はありません。口語訳では「差別」(ローマ3:22,10:12)と翻訳していますが、ユダヤ人の側からでも、異邦人の側からでも、互いに差別するようなことがあってはならないわけです。

教会が異邦人で満ちるようになるにつれ、ユダヤ人が差別されるようになってきた2000年の歴史を、パウロはあらかじめ見透かしていたかのようです。この箇所を、たとえば日本人として、日本人の同族を救いへと導く熱意を持つようにと促す言葉と捉えても間違いではないだでしょうが、原意はあくまでも、神の民ユダヤ人の救いであることを忘れてはならないでしょう。パウロは、ローマ諸教会に、ユダヤ人伝道の熱意の種をまいているように思えます。

ローマ11:13-14
そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務を光栄とし、どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている。

このように語る「異邦人の使徒」であるパウロが、本心からユダヤ人の救いのために奮起しているのだから、異邦人の皆さんも同じように奮起してください、と、言外にパウロの願いが込められているようです。ローマ教会へのこの手紙の目的のひとつは、このように、ユダヤ人のための働きへと教会を促すことにあると思います。

ローマ13:11
なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。 12 夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。 13 そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。 14 あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。

パウロの目には、ローマの聖徒たちは「眠れる」獅子でした。16章に綴られている多くの働き人がありながらも、ローマ帝国の中心地にあって、神を知らないこの世の堕落の様相が、教会の内部にも影響を与えていたのでしょう。聖徒たちであるにもかかわらず、「夜はふけ」ている中、「やみのわざ」に陥っている。それで、「あなたがたの眠り」こけている状態から立ち上がってもらいたい、というパウロの熱心な願いを伝えたかっただろうと思われます。それで、直接会って話をしたい、と熱望していたのでした。それに先んじての、この手紙となったわけです。

ローマ15:15
しかし、わたしはあなたがたの記憶を新たにするために、ところどころ、かなり思いきって書いた。それは、神からわたしに賜わった恵みによって、書いたのである。

パウロがこの手紙の中に書き記していることは、決して新しいことではなく、すでに、多くの人によって伝えられていることに他ならないわけです。ただ、それらのなかでも、パウロが特に集中的に書いている内容があるわけで、それらがパウロの目的を指し示しているでしょう。救いについての組織神学論文を提示して、これをよく理解してください、というだけが、この手紙の目的ではありません。福音は神の力! それによって、教会は力づけられ、なすべき働きのために、その力を十分に発揮できるようになります。神に生きることになります。パウロが召されていた異邦人伝道はもちろん、ユダヤ人伝道も忘れられてはならないことであって、そのためにも力を尽くす必要があることを思い起こさせてくれます。

ローマ15:20
その際、わたしの切に望んだところは、他人の土台の上に建てることをしないで、キリストの御名がまだ唱えられていない所に福音を宣べ伝えることであった。

ローマ15:22-24
こういうわけで、わたしはあなたがたの所に行くことを、たびたび妨げられてきた。しかし今では、この地方にはもはや働く余地がなく、かつイスパニヤに赴く場合、あなたがたの所に行くことを、多年、熱望していたので、――その途中あなたがたに会い、まず幾分でもわたしの願いがあなたがたによって満たされたら、あなたがたに送られてそこへ行くことを、望んでいるのである。

ローマ15:25-27
しかし今の場合、聖徒たちに仕えるために、わたしはエルサレムに行こうとしている。なぜなら、マケドニヤとアカヤとの人々は、エルサレムにおる聖徒の中の貧しい人々を援助することに賛成したからである。たしかに、彼らは賛成した。しかし同時に、彼らはかの人々に負債がある。というのは、もし異邦人が彼らの霊の物にあずかったとすれば、肉の物をもって彼らに仕えるのは、当然だからである。

異邦人伝道、ユダヤ人伝道共に、極めて大切な、魂に神の祝福をもたらす刈り取りの働きです。パウロ個人がユダヤ人であるから、ユダヤ人伝道にも重荷がある、というだけではなく、異邦人教会にもまたその重荷を同じように持ってほしい、との熱意が汲み取れます。

さしあたって、エルサレムの教会の重荷を分かち合い、支援する活動のことが語られています。マケドニヤや、3ヶ月滞在していたギリシャの諸教会が、エルサレムの聖徒への献金をささげたことが証しされています。パウロは、ここではローマの教会に直接その支援を求めてはいませんが、機会があったら支援してほしい、という意図は十分に理解できます。善行というのは、命じられて行うより、隣人の窮乏の現実を知って、自発的に行うべきものだからです。「信仰によって生きる」ことは、信仰による自発性という積極さが特徴にあるものなのです。

ローマ人への手紙の内容も、もしかしたら、パウロがマケドニヤやアカヤの諸教会で語った説教であったかもしれません。それを通して、異邦人教会である彼らが、ユダヤ人への重荷も増し加えられて、献金に結びついたとも考えられます。

隣人の窮乏を知っても、それに対してあえて目をつぶっている事が、人間にはあります。世界を見渡せば、もちろん多くの困窮者がいることは情報として入ってきます。でも、その人々に対して、一体自分は何をするか、という点で、躊躇してしまうことも事実です。

エルサレムの窮乏に対して、ローマの諸教会は積極的に援助しようとしていたのでしょうか。当時、異邦人がおそらく多数を占めるローマの地域にあって、他人を裁く傾向の強いユダヤ人(2章)、特に異邦人に対するユダヤ人の態度は硬いものがなお根強く残っていたのに対して、ローマの異邦人教会は、戸惑うことが多くあったかもしれないと思われます。悪くすれば、嫌気がさしてしまっていたかもしれない、というところです。マケドニヤやアカヤの諸教会も、ユダヤ人からの迫害を経験済みです(使徒18:12)。

ローマ15:28-29
そこでわたしは、この仕事を済ませて彼らにこの実を手渡した後、あなたがたの所をとおって、イスパニヤに行こうと思う。そしてあなたがたの所に行く時には、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと、信じている。

ローマ15:31-32
すなわち、わたしがユダヤにおる不信の徒から救われ、そしてエルサレムに対するわたしの奉仕が聖徒たちに受けいれられるものとなるように、また、神の御旨により、喜びをもってあなたがたの所に行き、共になぐさめ合うことができるように祈ってもらいたい。

パウロは、この機会に当たって、ローマ教会に対して具体的な願いを抱いていました。それは、イスパニヤに宣教するに当たって、「あなた方に送られてそこへ行くこと」です。つまり、宣教支援を求めているわけです。そのための熱意は、どこから生まれてくるでしょうか? それこそが、福音の確かな理解であって、それに基づいて神にささげる信仰が成長し、具体的な支援へと結びついていくわけです。霊的な礼拝とは、自分自身を自ら神にささげることであって、神の御旨に従った働きをすることにほかなりません。

パウロの目的は、宗教的活動に人を鼓舞することにあるのではないことを、間違えないようにしなければならないでしょう。「神の御旨」を正しく受け止めて、それに心から従うことが、私たちにも喜びをもたらし、また共に慰めあう生活をも生み出すものです。「他者」を真に愛していくことを学ぶのは、まさに神の無限の愛の表出である全世界宣教の働きに自らをささげることにおいてであることを、パウロの生き様そのものが示しています。「実を得る」(ローマ1:13)とは、御霊の実と呼ばれる愛などが具体的な関係に現れてくるものです。ユダヤの聖徒たちへの援助、スペインへの新たな宣教に協力してもらうこと、その実を得られたら、パウロのこの手紙の目的は達成されたと言えるのです。私たちもぜひこうしたことを、神の導きを受けつつ、実践的に学び続けたいものです。

ローマ16:1-2
ケンクレヤにある教会の執事、わたしたちの姉妹フィベを、あなたがたに紹介する。どうか、聖徒たるにふさわしく、主にあって彼女を迎え、そして、彼女があなたがたにしてもらいたいことがあれば、何事でも、助けてあげてほしい。彼女は多くの人の援助者であり、またわたし自身の援助者でもあった。

パウロのこの手紙をローマへと運んでくれたのが、フィベという姉妹だったようです。ケンクレヤの教会の執事。パウロは、その辺りにいたわけです。パウロは、マケドニヤ、アカヤの献金を携えて、エルサレムに行こうとしています。ローマにはいずれ来る予定で、まずはこの手紙を、フィベに託したのでした。

ローマ16:17
さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。

分裂を引き起こす輩たちを警戒すべきことが、最後に記されています。教えの本文でも、律法を盾にして裁きあわないこと、信仰の弱い者を受け入れること、など、この勧告への伏線としての教えがすでになされていましたが、最後に釘を刺す、ではありませんが、教会が非常に注意すべき実践上の勧告です。何が目的で教会を分裂させようとする人々があらわれるのか、とても不思議なことです。

異邦人が教会に多数加えられるに従って、使徒15章で大議論になったようなユダヤ人と異邦人との問題が、各地で起こってきたことと思います。ユダヤ人の側から異邦人を排除、あるいは同化しようとするユダヤ教のままの習慣的な考えが抜けていないクリスチャンが、教会に存在し続けていたでしょう。真理に基づかない、感情的な排斥感。それが、分裂の要因となっていたと思います。

結果的に、教会が簡単に力を失い、福音を伝える働きから後退するのは、目に見えています。決してそのような過ちに陥ることのないように、くれぐれも気をつけていなければなりません。

「分裂」の問題は、また、エルサレムの聖徒たちを援助することとも関連させられるかもしれません。エルサレムの聖徒たちは、ユダヤ教の背景がより強い傾向を持っています。使徒15章で起こったことも、エルサレムから来た人々による問題からでした。排他主義に陥る傾向の強いユダヤ人クリスチャンに対して、ローマの、異邦人が多数を占めている 教会が、自発的に喜んで援助を行うでしょうか。

相手が心を閉ざしているのなら、こちらから敢えてアプローチする必要はない、異邦人からだというので嫌がられるかもしれないのに、援助をすることもない、という態度になりやすかっただろうと思います。パウロは、ユダヤ人の位置づけをこの手紙の中で詳しく取り上げて、彼らがいなければ異邦人も救われることはなかったことを説きます。彼らの霊の物にあずかっていることを、思い起こさせているのです。

排他主義者への積極的アプローチは、21世紀の最大のテーマであるかもしれません。危険を伴う最も困難な働きです。キリストの教会は、それを見過ごしたり、やり過ごしたりしていてはいけないのです。今こそ神の福音に力づけられて、彼らに積極的にアプローチすべきことを、私たちはこの手紙から学ぶ必要があります。

ローマの聖徒たちには、コリントのような具体的に指導しなければならない問題があって手紙を書かなければならなかった、というよりは、パウロの宣教ビジョンに裏付けられた教会宣教論のまとめ、と言えるでしょう。エペソの手紙も同様ですが、そのためにパウロの単名による手紙となっているのだと思います。

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