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キリストの終末預言 (3)

     真のキリスト vs 偽のキリスト マタイ24:23-31

世の救い主、と呼ばれる人とは、どんな人なのか。それは私の救い主でもあるはずだけれど、どれが本当の救い主なのか。そもそも、本当の救い主はいるのか。

困難のただ中にある時、助けの手を差し伸べてくれる人があれば、それにすがるのは自然の成り行き。その人が本当に善意でしてくれているのかどうか、その時には考える余裕もないままに。信仰者にとっても同じで、救いの手が差し伸べられるとき、「神の助け」と思ってそれにすがってしまうだろうと思います。ただ、はっきりと「偽物がやってくる」と教えられているのに、それを聞き逃していたら、全く見分けることもできないままに流されて行ってしまう、というのがここからの教えです。

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神の預言、神の言葉

イエス・キリストの預言は、「神の言葉を預かった」ものであると共に、神ご自身の言葉そのもの、という面があります。過去になされた預言とその実現を記録したものをまとめたのが聖書ですが、それらの言葉自体が神の言葉として私たちに語りかけてくるものです。

それは本物か。それで、イエス・キリストの神性をマタイは状況証拠をあげるように語ります。

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山上の説教を聞いた人々が驚いたのは、イエスが「権威ある者のように、教えられたから」(マタイ7:29)でした。他人から聞いたことを伝えるスタイルが預言者です。つまり、神から聞いたことをその通りに伝えるわけです。預言書の中に「主は言われる」というフレーズが頻繁に出てくる通りです。ところが、イエスは、ご自身が事を定める権威があるかのような語り方をしました。「わたしはあなたがたに言う」(マタイ5:22等)などと、預言者は決して言うことはできません。

サドカイ人が復活はありえないと主張する根拠のような議論も、簡単に論破します。あなたがたは聖書も神の力も知らない、復活の時には人は天使のようなもので結婚というものもない、と、まるで復活の時を見てきたかのような言い方をするのです(マタイ22:23-30)。

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宗教家たちとの論争で最後のものがキリストの永遠性に関わる聖書箇所の解釈。パリサイ人たちは、よく知っているはずのキリストに関する預言を、突き詰めて問われた時、答えることができませんでした。彼らは、救い主としてやってくる「キリスト」はダビデの子孫であって、神のような永遠の存在だとは考えもしなかったのです(マタイ22:41-46)。

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宗教家が注目したのは、イエスが宗教の伝統に沿った行動をしているかどうか、だったことを、マタイは特筆します。神の律法に従っていると自負していた宗教家たちは、律法そのものではなく、そこから派生していた数多く作り足された宗教規則を重んじるようになっていたのです。イエスは、その規則を無視し、ある時にはあえて破るような行動をとります。その最たるものが、「安息日」と呼ばれるユダヤ教の聖日に病人を癒した、ということだったのです。

伝統は時に、神の信じるを見失わせます。その事実を淡々と記録しているマタイは、伝統として作られた宗教ではなく、この世の創造者たる神に向けるべきことをイエス・キリストから学んで、福音書をまとめたのです。

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終末が来た時の判断資料になり得るもの

このイエス・キリストが、世の終わりの前兆について語り、そして「荒らす憎むべき者」について語ったのでした。さらに、真のキリストの再臨についても言及します。神の民、イスラエルが、その時が来たときに正しい判断をすることができるように、です。

大患難時代に、イスラエルは偉大な指導者に出会うことになる、と旧約聖書のダニエル預言からうかがい知れます。最初はその人物は平和の王として現れるのです。ところが途中で変貌し、「荒らす憎むべき者」となり、自らを神として一切を支配しようとする。それを、キリストがより具体的に示しているのです。

この人物を救世主として信じ切っていたイスラエルの絶望ははかり知れません。そこに、「偽キリスト」「偽預言者」がまたぞろ現れる、といいます。戦いがあり、避難生活を余儀なくされる状況にあって、民族絶滅に直面する失望のさなか、助けが現れたとなったらそれを信じてついていったしまうでしょうか。しかし、偽キリストに従って行く末に、本当に救いはあるはずはありません。

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聖書に記録されている歴史から学ぶ

イスラエルがエジプトから脱出できたとき、モーセが神の律法を受け取るべくシナイ山にこもります。ところがあまりに長く降りてこないため、イスラエルの民は、自分たちにできることをしようとして、金の偶像を作ってしまいました。「これが私たちをエジプトから救い、先だって導いてくれる神だ」(出エジプト32:1-4)。

神を信じてはいたのでしょう。でも、モーセを待っていることができず、自分たちの思いのままに、できることをしてみたわけです。神は、彼らのそうした努力を認めてくれたのでしょうか。神への信頼の不足と共に、神の御言葉を聞いていながらそれを正しく受け止めていなかった彼らは、神の怒りを買うことになります。正しい知識、神の義を知らないままに自分勝手な努力をすることは、実は危険なことなのです。

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ガラテヤの諸教会が直面した危険は、違った福音に陥ってしまったことでした。イエス・キリストの福音を聞いて信じた彼らは、この世の悪から救われて、自由を享受して歩み始めていたはずでした。ところがそこに、ユダヤ教の伝統に基づいた教えが入ってきます。彼らもなじんでいたユダヤ人の古くからの習慣に、簡単に流されてしまったのです。伝統の権威というものは、私たちに大きな影響を及ぼすものです。伝統に直面するとき、その社会の中で生きていくうえで他に選択肢はないかのように思えてしまうからです。ガラテヤの人びとも、そうして、神から離れてしまいました。

神の民がどのような危険に直面してきたか、私たちはその歴史を学ぶことが大切です。道を誤り、失敗した記録によって、私たちは同じ過ちを繰り返さないように、神は警告を与えてくれています。歴史に記された神の真理を学んで、この先に現れるとされる偽キリストに対しても警戒することができるのです。真のキリストをはっきりと知って、聖書に教えられている預言を正しく学ぶなら、終末に再び現れると預言されているキリストを、あまりに長くやってこないからと言って自分勝手な救い主を祭り上げたりせず、教えに従いつつ、期待をもって待ち望むことができます。

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真の救い主、真のキリスト

そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。(マタイ24:30) 

私たちは、人間としての自分の弱さを自覚すべきでしょう。真実なものを知らないままでいたら、たやすく偽物の流れの中に沈んでしまう者なのです。キリストが最初に世に来られた時、ベツレヘムで産まれることも、十字架にかかって死なれることが人の罪を負って贖うためであったことも、預言の言葉に記されている通りでした。その預言が伝えることは、 キリストが再び来られる、ということなのです。

「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。」(ヘブル人への手紙9:28)

信頼できる言葉なのか。信頼できる人の言葉なのか。簡単にそれがわかれば苦労はありません。数千年の歴史の中で語られ、確かめてきた人たちの記録は、まず最初に、じっくりと取り組むべき言葉だろうと思います。

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       (写真は2016年アルバムから)

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