見出し画像

教えるための基本的姿勢

(参考:創造的な聖書の教え方 第8章「聖書の創造的な教え方のパタン」)

聖書をどう学んだらいいんだろうか。教えながら学ぶ、というのが、どうも最善の道。下記の続き。

私たちがある「方法」を実践するかどうかが、聖霊が働いてくださるかどうかを決めるのではない。聖霊がどのように働いてくださるのかを知って、聖霊の方法に従うことが、私たちのとるべき道筋である。

聖霊の働き方に沿って私たちが聖書を教えるときにこそ、教える聖書箇所からの学びが最もよく生徒に受け止められ、実践される可能性も高い。聖霊が働いてくださるときは、スポルジョンの経験したような救いの実現もありうる。しかし、私たちがスポルジョンの経験について知っていることは限られている。あるいは彼も、段階を踏んだ神の導きがあったのかもしれない。最終段階で、ただ読み上げられたイザヤ書の言葉で、決心が導かれたのかもしれない。

パウロの祈り

「そういうわけで、これらの事を耳にして以来、わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。」(コロサイ1:9,10)
9 For this reason we also, since the day we heard it, do not cease to pray for you, and to ask (1) that you may be filled with the knowledge of His will (2) in all wisdom and spiritual understanding; (3) 10 that you may walk worthy of the Lord, fully pleasing Him, (4) being fruitful in every good work (5) and increasing in the knowledge of God;

神を知る知識が増し加わるように、との祈り。コロサイ周辺の聖徒たちには、使徒たちの伝える御言葉の他に特殊な「知識」への信仰が生じ、禁欲やあるいは逆に放蕩に走っていた。彼らのための祈りの中で、神を知る知識に行き着くまでの数段階があることを示している。

(1)神の御旨を深く知る

「神の御心に関する真の知識に満たされますように」:どの学校に進学するのが神の「御旨」か・・・そうした問題は、「御旨」の先にある事柄のようである。「御旨」とは、神の御言葉、つまり聖書、で明確に示される神の意思。自分に対して、生きて働きかけてくださる神の意思は何か。その問いかけがスタート。

学んでいる聖書箇所を、はっきりと理解すること。その箇所で、神は何について語っておられるか。そのことについて、どう語っておられるのか。

その箇所を含むより広い範囲の理解。注解書や講解説教から、梗概、構成について読んでもいいが、自分で作ってみることをお勧め。

(2)「あらゆる霊的な知恵と理解力とをもって」

知恵とは、適切な行動は何かを判断し、実行へと促すもの。「理解力」は、自分を取り巻く状況を正しく知ることを指す。それで、聖書のある箇所が指し示している状況と真理とを学ぶこと、同時に、現在の自分を取り巻く状況と、自分自身の内的状況とを、正しく知ること。

そして、聖書と自分とを結びつける洞察力が、ここで祈り求められていることだ。

聖書学者は、聖書をいくらでも知的に研究することができる。しかしその研究が、人の行動を正しくすることに結びつくかどうかは不明。信仰によって結び付けられた知識でない限り、聖書の知識は、実際的な益をもたらさない。

神はこの世界にどのように働きかけてくださっているか。神は自分にどのように働きかけてくださっているか。それを知って、自分は神にどのように応答するか。

聖書教師は、神のご人格を受け止めつつ、その働きを自ら期待しながら、御言葉のとおりに生徒たちに働きかけてくださることをも期待する。生徒の生活が、御言葉のとおりに変えられていくためにも、御言葉と生活とが結び付けられるように教える。

コリント教会は、神についての知識を多く持っていた(1コリント6:2,9,15,19)。しかし聖徒間のトラブルを解決する知恵、道徳的自制に至らない。それで、「肉に属する」と言われている(1コリント3:1)。

(3)「主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ」

コリント、ヘブル人への手紙の宛先の人々は、神の願われることに応答するだけの十分な信頼を神においていなかった(ヘブル3:16、4:2)。 神への人格的な応答が、生徒から自発的になされること。神がいないかのように普段を生きてきてしまった人は、ついつい、聖書の教えも、たんなる処世術として受け止めてしまうかも知れない。生徒を取り巻く環境も、そのようなものかもしれない。けれども、最終的には、「彼(イエス・キリスト)の御言を守るものがあれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。」(1ヨハネ2:5)

イエス・キリストが弟子たちに語った言葉。「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」(ヨハネ14:21)

(4)「あらゆる良いわざを行って実を結び」

良いわざそのものが、期待されている「実」ではない。良いわざによって、その相手との間に「御霊の実を結ぶ」にいたる。聖霊ご自身が働いてくださる結果を指している。「御霊の実」と呼ばれる有名な箇所が指し示していることは、御霊に従って歩む者たちの間に、神が実を結んでくださることだ(ガラテヤ5:16,22,23)。

(5)「神を知る知識をいよいよ増し加えるに至る」

神に応答することで、人格をお持ちになる神が、現実の中で、生きておられ、自分に働きかけてくださることを、知る。このやり取りは、知識として知っているだけの者には、決して到達できない経験的な知識をもたらす。キリストも、「わたし自身をあらわす」とおっしゃった。


パウロの祈りの教育的意義

パウロが祈ったように祈る者は、御言葉が実行され、生活が変えられることに目的を置く。御言葉を教えるのは、そのためだ。教師が聖徒を変化させるのではない。神が、御言葉を受け止めた聖徒を、造りかえる。

(1)神について知ることと、神を知ること

イエス・キリストに出会う、という言い方を私たちはしない。福音書には、イエスに出会った人たちの記録が多数ある。2000年前には、確かにそうだった。受肉した神は、地上におられ、人々と出会った。今は、私たちはイエス・キリストを見ることはない。けれども、福音書の記録を通して、まさに地上におられた頃のイエス・キリストが、今は天におられる大祭司として、場所と時間の制約なしに、私たちに働きかけてくださることを期待できる。(そして、私たちが出会うのは、聖書の御言葉を伝えてくれる人だ。)

神に対して、そのような態度で臨み、御言葉を学ぶ者は、「神を知っている」者である。「神について知っている」だけでは、神とともに歩むことはできない。

また逆に、聖書を通さずに神を知ることはできない。今は、霊感された聖書の言葉を通して、神は語っておられる。神を知る知識は、神に人格的に応答する者のうちに、深く宿る。

(2)人間の責任領域

教師の責任は、第一に、聖書を情報として教えること。神が語っておられることを知らせなければならない。

第二に、人間の経験に対して聖書が持つ意味合いを、生徒に発見させること。情報を知った生徒は、それを自分の生活の中における意義を、自分で見出さなければならない。真理から意味合いに移る過程は、成り行き任せにはできない。

第三に、生徒が知りえた意義を、具体的に行動に移すように促すこと。どのような行動をすべきか、決心させ、実現に向けて励ます。それが、教師の責任である。

(3)教え方のパタン

聖書箇所の理解と、生活の中での意義を理解し、適切な応答をして行動への決心をする。これは、人格的な対話による指導によってのみ、可能である。ご人格を備えた神が、生徒一人一人に対して語りかけ、働きかける。御聖霊が、教師を通して、そのように働きかけてくださる。人格的な結びつきの中に、神の真理は伝えられていく。だから、この教育課程は、「創造的」な教え方と呼んでいいだろう。

御言葉が人間の生活を変え、一人一人を神との絶えず深まり行く関係に導く働きは、この上なく尊い働きである。これは、成果を生む説教、個人的な聖書のデボーションにも同様に適用されうるものだ。

(仲間同士、一定期間、同じ箇所のデボーションで、シンプルで具体的な適用、応答と実践をそれぞれに試みる。ノートを作成して記録する。神がその実践に対してさらにどのようなことをしてくださったかについて、あかしし合える場を持つと、神にある生きた交わりが深められる。)

(4)祈り

教え方のパタンに沿って聖書を説明したら、自動的に、プログラミングされたように聖霊は活動するのか? 人格をお持ちの聖霊が働いてくださることを期待しつつ、神に祈ることが必要。パウロは、祈った。私たちは、神に強くされる必要があるのだ。(コロサイ1:11)

私たちは、方法論に信頼を置いて、聖書の授業をするのではない。神に信頼して、聖書を教える。

教師は、御言葉に照らして人の反省を促す。けれども、人の心の内を照らすことができるのは御霊である神。教師は御言葉への応答を促す。けれども、御霊である神が、その人をキリストの愛と、あらゆる点で主に喜ばれたいと言う願いで満たしてくださる。この神に信頼し、祈りつつ、教師自身が神と交わりつつ、人を導く。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?