毎日が天国
マタイ5:3 ~今、永遠の命を生きる~
日本では、聖書の中で一番有名な箇所かもしれません。山上の説教と呼ばれる個所の冒頭の言葉です。
こころの貧しい人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。
天国は近づいた、天国は彼らのもの
イエス・キリストは、すぐ前の章で「悔い改めよ、天国は近づいた。」とのメッセージを伝えています。五章のここでは、近づいただけでなく、すでにその人の手中にある、と宣言しているわけです。その人こそが本当に幸せなんだ、と。
好きではない言葉のひとつが「生き地獄」。一方、温泉に浸かっている時などに「極楽、極楽~」と聞くことはありますが、「生き天国」とは聞きません。天国は、一瞬ではなく永遠に続くべきものだと思われているからでしょうか。
そして、永遠に続く天国はあり得ないこと、と、心のどこかで思っているかもしれません。天国なんてないし、神もいない、そもそも神に頼らなきゃ生きていけないような頼りない人間にはなりたくない、と私は頑なに思い込んでいました。
でも今は、素直に、天国を受け入れることができています。なぜそうなったのか。「心の貧しい人たち」と書かれていますが、それは自分のことだったのだとわかったからです。
弟に先を越されたペテロ
ペテロという弟子の筆頭がいます。弟は当時の預言者から「イエスは世の罪を取り除く神の小羊」と言われて素直に従いましたが、ペテロは最初は受け入れられなかったのです。ところが小さな奇跡を経験して驚き、自分が疑って尊大・無礼な態度を取ってしまった罪責感に打たれます。そしてイエス・キリストの足元に伏して、「主」として受け入れたのでした。
「神はいない」と、証拠もないのに、全く無礼にも決めつけていた自分の姿を、このペテロの内に見ることができます。私も「神がいる証拠を見せてみろ」と思っていたわけですが、聖書の存在こそがその証拠。よく読めば、その確かさがわかってきます。それを読もうともせず、やみくもに否定ばかりしていた。
「心の貧しい人」と言われて、まさに自分がそうだ、というところです。
こころが貧しいと認めるとき
驚くのはその先です。「心の貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」と言われるからです。心の貧しいことを気づかされたら、認めざるを得なくなったら、ますますそれを覆い隠そうとするのは、潔くない。認めるしかない。そんな私に、「さいわい」だと声をかけてきているのです。なぜさいわいかというと、「天国は彼らのものである」からだ、と。
こんな話、ほかでは聞いたこともありません。すごさの極みは、罪のない者が罪人のために罪となって、身代わりに「のろい・刑罰」を受ける、ということ。イエス・キリストは、罪人が赦されて天国に生きるために、自ら十字架の「のろい・刑罰」を受けてくれた、と。これ以上にありえない事柄って、ない。まさに、真実の神でなければそんなことできっこない、というのが、聖書の中身だったのです。
神が人となった、私が神だと主張する人は、世界に多数います。けれども、罪のない神が、罪人の代わりに「のろい・刑罰」を受けるために人となった、罪人が天国に生きるために、というのは、イエス・キリスト以外にはない。
そのキリストは、十字架の死ののち三日目によみがえったのでした。これこそ、永遠の天国の保証ではありませんか。
イエス・キリストの誕生を記念するクリスマスや復活を喜ぶイースターが世界中で祝われるのも、こうしてみると当然のように思います。
心の豊かな人が天国にふさわしいはずなのに、実際には、天国にふさわしい豊かな心の人というのは、神の基準に照らしてみると存在しない、ということだったのです。自分こそが天国にふさわしい、と言える人って、実は天国から一番遠い人なんですね。
心の貧しい人にこそ、良い知らせがある。
自分を無にしようと修行をする必要もない、そもそも自分は無に等しい者だった、この私のためにキリストは世に来られ、十字架にかかって下さったのだ、と心に受け入れて、新しい命に生まれ変わって天国の道を歩み始めるように、私たちは招かれているのです。キリストが自らの命を賭して与える永遠の命に「狭い門からはいれ」、毎日が天国になるように、と。
こころからの「メリー・クリスマス」「ハッピー・イースター」を!
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