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III-1 すべての人が信仰によって死のからだからの救いを得て生きる

ローマ 5:12-8:39

ローマ人への手紙第三部の最初の議論は、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人がかかわる「罪のからだ、死のからだ」からの救いについてです。

こころ・霊とからだ

霊は生きても、からだが死んだままでは、神の栄光をあらわす本来の人間としての働きはできない、とパウロは看過しているようです。人が神に生きるためには、「罪のからだ」(6:6)、「死のからだ」(7:24)から救われることがまず必要になるのです。

聖書が示す人間像は、魂と体が一体の存在です。それが、人間の堕落と共に、人間とこの世に罪と死が入り込みました。魂も体も、この世にあっては神と断絶状態。それが「死」の実質です。キリストにあって魂が救われたとき、本当なら体も魂とひとつのものとして、すぐに神に生き始めるなら問題はなかったはずです。

ところがおそらく、堕落の結果、魂と体との一体性が崩れてしまったように思えます。それが無意識に行われている「自分に対する偽り」問題かと考えられます。さらに、人間は無意識に行動できるように身体(肉)に習慣づけられているものが変革させられなければなりません。

偽りの生き方を自覚し、キリストの律法に則った新しい習慣を身に着けるための第一歩が、「罪のからだ・死のからだの救い」を理解することです。

キリストによって最終的な体の贖いの時が来ることが預言されていますが(8章)、その時までの今の時代においては、偽りから全く解放された心身一体性の回復は「ただ今工事中」の様相を呈しているように思います。

ここに書き綴っている内容も、ただいま工事中、というところです。コメントをいただければありがたく思います。

「死」というキーワード

さて、5章12節以降の一つのキーワードは、「死 THANATOS(名詞)」。1:32に一度使われた後、2度目に出てくるのは5:10だけですが、これは御子の死への言及。すぐ後の5:12で、全人類に入った死が論じ始められます。そして、8章までの間に21回立て続けにあらわれます(5章6回、6章7回、7章5回、8章3回)。ローマ人への手紙では、22回だけ使われている「死」。「死」が次に多く使われるのは黙示録19回。「死ぬ TNOTHNESKO(動詞)」も、ローマ人への手紙に23回で、これも新約聖書の中でダントツ。そのうち、5:12から8章まででは13回。

第二部の「神の怒りからの救い」から、「死のからだからの救い」にテーマが移るのですが、両者は無関係ではないようです。使徒ヨハネが福音書で、「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」(ヨハネ3:36)と書いています。神の永遠の命にあずかることと神の怒りがとどまることとが、同時には起こりえないこととして並び記されているのです。その境界にあるのが、御子に従うかどうかである、と、ヨハネは記します。

その転換点にあるのが、ヨハネによれば御子に従うことでしたが、パウロはそれを、罪と律法に対して死ぬこと、と説明を加えています。

罪によって、神に対して死んでいる存在となってしまった人間は、その罪に対して死ぬことによって神に対して生きる、とパウロは言っているようです。また律法が契機となって罪が支配するのです。律法に対しても死ぬ必要があるわけです。それをもたらしたのが、キリストの死でした。それはまず、神の怒りからの救いを実現したのですが、それだけではなく、死のからだからの救いも実現したのです。

こうして、恵みによって義とされた人が、さらに恵みによって神に生きることをスタートすることができるようにされます。

(1) 5:12-21 一人の人による「死」「命」
(2) 6:1-14 罪に死に義に生きる:
(3) 6:15-23 罪の僕、義の僕
(4) 7:1-6 律法からの解放
(5) 7:7-25 心と肉の律法
(6) 8:1-11 御霊にあるもの
(7) 8:12-17 御霊に導かれる神の子
(8) 8:18-25 栄光の望み
(9) 8:26-30 とりなしと栄光
(10) 8:31-39 神が味方である結果

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