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はじロー(12)新しく生まれ変わる夜明け前

はじめて読むローマ人への手紙3章9-20節

新しく生まれ変わる夜明け前

日本の日の出は、太陽の通り道が斜めなせいか、実際の日の出時刻よりもかなり前からうす明るい状態になります。赤道直下のインドネシアは、ほぼ垂直に上るので、薄明るい時間帯が日本に比べて短いのです。ポッと明るくなって、急激に暑くなる、という感じ。

そんなふうに、日の出の直前を描く3章前半は真っ暗な印象です。ここまでのローマ人への手紙は、神の愛に召された聖徒と対象的に神の心から離れている人間を話題にしていました。しかも、一人もこれからはずれる人はない、ユダヤ人もギリシャ人も、例外なく、罪人だ、と。愛の神と心を一つにできる義人は、一人もいない、のです。

その結果、宗教も神の愛をそのとおりに実践するに至らないものとなっていました。それが言葉に表されると、祝福を語るよりずっと多くの呪いの言葉を口にしてしまいますし、小さないざこざが心が激しく揺れ動いて大きな事件にまでなる場合も。今まで自分が犯罪にかかわらなかったのも、ちょっとした出来事で守られていたからに過ぎない、と思えます。

そんなことを言われたら、もう神のさばきで滅ぼされるのを待つしかないのか、と、お先真っ暗な感じすら持ってしまいそうです。しかも、いったい誰が聖徒と呼ばれるようになると言うのでしょうか。

この先を読み続けると、ここが夜明け前の転換点だとわかります。太陽が背中の後ろから輝き始めたら、目の前に見えるのは長い影。その影を、まず、しっかり見つめなければならない、と言われているようです。旧約聖書の最終結論は、人間の暗闇に光を当てるものだったのです。

生まれつき、心が神と正しい関係を持っている人は、誰もいないのです。それで、神の側から、行動が起こされたのでした。次がその日の出の話です。真っ暗なところに日が差し込む。それまでの暗闇が際立つかもしれませんが、光を楽しむのはここからです。神の心を知るだけではなく、その心に飛び込むことによって。

ローマ人への手紙3章9‐20節

では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。
次のように書いてあるとおりです。
「義人はいない。一人もいない。
 悟る者はいない。神を求める者はいない。
 すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。
 善を行う者はいない。だれ一人いない。」
「彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く。」
「彼らの唇の下にはまむしの毒がある。」
「彼らの口は、呪いと苦みに満ちている。」
「彼らの足は血を流すのに速く、
 彼らの道には破壊と悲惨がある。
 彼らは平和の道を知らない。」
「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
 私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。


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