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はじロー(3) 天から啓示されている

はじめて読むパウロの手紙 ローマ人への手紙1章18-23節

神の義は福音の中に啓示されている、というのが前節の終わりにありました。いよいよ福音の詳しい説明が始める、と思いきや、すぐ次に、神の怒りが天から啓示されている、とパウロは続けます。良い知らせは、悪い事柄が駆逐されることから始まります。

これは、手紙の受取人である「聖徒たち」のことではありません。「不義によって真理を阻んでいる人々」がいて、その人たちに対して神が怒っている、というのです。

「聖徒」は、真理を受け入れた人たちですから、この手紙では第三者の立場にあってパウロと一緒にこの問題を考えるように誘われているのです。

「真理を阻んでいる人」に面と向かってパウロが神の怒りをどのように語るのか、そばに立って聞いていてみたいと私はとても思うのですが、残念ながらこの手紙はそういう模範にはなっていないように思います。

人間の現実を再認識することは、聖徒としても大切なことです。聖徒にとっては、自分がどのようなところから救われたかを再確認する作業です。そうして、現在の自分の立っているところの素晴らしさをより深く知り、信じるすべての人に救いを与えてくれる神に、より感謝の念が増すからです。

実際、人間の問題は、神への感謝が欠如していることにありました。自然の雄大さを感嘆し得ても、その自然を創造した神を感嘆することがなくなってしまっているのです。目には見えない「霊」の存在は心に感じていても、その現実的な存在の数々のしるしに目を向けることなく、かえって背を向けている。神のようなものがあるだろう、と勘付きながら、神に向こうとしないとしたら、それはなぜなのでしょう?

感動を与えてくれる事柄がある一方で、神も仏もないと思えてしまう出来事もまた、この世には次々と起こります。それらにだけ目を向けてしまうと、天からは怒りしか感じ取れなくなるのでしょう。なぜ、怒りが天から啓示されるようになったのか、真理を阻むものが心の中になかったか、私たちにはまだ思い巡らせる時間が残されているのです。

聖徒たちには、自分勝手に思い描いていた神が、朽ちてしまう人間や動物と同じ程度の存在にしか考えていなかったことを思い返すなら、生きて自分に対しても働きかけてくれる神をより深く知ることに、感動を新たにするにちがいありません。

誰よりも、パウロはその感動の中に生き続けた人だったと思います。

というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。(ローマ人への手紙1章18-23節)


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