永遠のキリストの最も重要な教え
キリストが人を愛したように愛することなど、できるのでしょうか。「愛せよ」という教えを聞いたとしても。もし私たちが、「あなたの隣人を愛せよ」との命令を聞いただけで実行できるくらいなら、この世に問題はなかったでしょう。聞いても実行できない。それが私の問題でした。キリストが人を愛したように私が互いに愛し合うには、どうしたらいいのか。
キリストのミステリー
パリサイ人、律法学者は、「キリストのミステリー」に全く答えられませんでした。
彼らの理解では、「キリスト」というのは一人の王、預言者、大祭司であって、人間です。そして、「ダビデの子」でした。つまり、過去の偉大な王ダビデの子孫なのです。ところが、紀元前一千年に書かれた詩篇110篇1節にある言葉は、なんとも不可解です。
ユダヤ人はこの詩篇110篇をキリスト詩篇と解釈していました。神である「主yhwh」が人間キリストである「主adon」に言われた、という言葉。ここで「私の主adon」とは、キリスト、つまりダビデの子孫のはずです。ところが、この詩篇の作者であるダビデが「私の主」と呼んでいるのです。自分より後に現れるはずの「主adon」に、なぜ「私の主adon」と呼んでいるのか。
もし、キリストが永遠の存在でなかったなら、この詩篇は意味をなしません。ユダヤ人の宗教指導者、パリサイ人、律法学者は、キリストがそのような存在であるとは考えもしませんでした。それで、彼らはイエス・キリストの問いかけにこたえることができなかったのです。
当時の宗教指導者の限界が、イエス・キリストとの議論の中でますます明らかにされてきていました。最初はイエスの権威について(マタイ21:23-22:14)、次にローマへの税金の支払いについて(マタイ22:15-22)、そして死人の復活について(マタイ22:22-33)。彼らの理解の不足は、イエスの弟子たちにとっても同じことでした。皆、「キリスト」をダビデの子孫としてしか考えていなかったのです。でも、イエスは永遠の存在であるキリスト(ヨハネ8:56‐59)。もし、イエスの永遠性を理解していたなら、詩篇110篇のミステリーは解けたのです。
キリストの新しい戒め
このキリストの律法。律法学者がイエスに対して旧約聖書の中の律法の中で最も重要な戒めは何かと問いかけていました。
もし問いかけていたのがユダヤ教の律法学者ではなく、弟子たちが「キリストの律法の中で最も重要なものは」と尋ねても、同じ答えだったでしょうか。
最後の晩餐の時、ユダが一人席を離れて出て行った後、残った弟子たちに対して「新しい戒め」を語る場面があります。
この戒めは、キリストに従う者だけに与えられた戒めでした。ユダは聞いていなかったものです。
律法の中で最も大切な戒めと言われたものと、この新しい戒めは、何が違うのでしょう?
最も重要な戒めの第一は、
そして第二は、
で、第一のものと同じように重要、と言われています。
この2つが律法の教えのすべてを包含する、とも言われていました。
それに比べて、キリストの新しい戒めは、第一の戒めを全く含んでいません。神を愛すべきことは、人間がなすべき永遠の戒めであることには変わりはないのでしょう。キリストの教えであることに違いないわけですから。でも現実に、人は命じられたからと言って神を完全に愛することができるものではない、という事実も、私はこの律法から知らされるのです。
新しい戒めにあるように、「わたしがあなたがたを愛した」というキリストに愛された事実があって、はじめて神に愛し返すことができるのが人間だ、と知るのです。
3年以上に渡ってキリストと共に生活をしてきた弟子たちでしたが、自分を愛するように同じ弟子仲間を愛することがどれほど難しいかを、この律法から知らされることになったと思います。最も身近な存在である弟子たち同士、最後の晩餐の席上でも、誰が一番偉いかと議論していたくらいですから。
弟子たちがキリストの愛の真の深さを知ったのは、よみがえったキリストが弟子たちに現れてくれた時だったでしょう。
キリストを3度拒否してしまったペテロは、キリストが十字架で死なれた後、自分のところに来てくれたキリストが本当によみがえったと知って、直視できたのだろうか、それこそ幻を見ているんじゃないか、と思ったのではと想像します。でも本当にキリストが生きていることを目の当たりにして、それこそ、顔をあげられない気持ちだったでしょう。同時に、自分が赦されていることをひしひしと感じただろうと思います。新約聖書の記録にはありませんが、この時もペテロは大泣きしたんじゃないだろうか、って、思うのです。
自分を愛する
自分を愛すること自体が、実は本当に難しいことかもしれません。
まず、自分のうちに罪があることを知った者にとっては、そんな自分を嫌になるのが当然かもしれないからです。律法を真面目に追求していたら、自分の罪を認めないわけにはいかないからです。
キリストを拒否してしまったペテロは、ちょうどそんな状態だったのでしょうか。
また、自分のうちに罪があることを知らない者にとっては、自分を愛することというのは自分のエゴを第一にすることに堕してしまっていてもそれに気がつけないで、結局隣人を愛することに至らないで終わる、ということでした。
これは、キリストを知る前の私です。誰が一番偉いかと議論していた弟子たちも、そうだったのではないか、と思うのです。
それで、自分を愛することを可能にしてくれるのも、キリストの贖いでと知らされたのでした。自分は神に赦され、愛されている、という自覚が生まれた時、自分への憎しみも溶け始めたのです。
最終的に、イエス・キリストが復活して弟子たちに現れたとき、その愛を自分たちの罪の赦しに見出してから、新しい戒めもまた彼らのうちに生き始めたのでした。それまでは、彼らは互いに言い争い、他人に先駆けて地位を得ようとするようなことを繰り返していました。しかし、復活のキリストを知って、彼らは本当に生まれ変わったのです。そして互いに愛し合うことを学んだのでした。
命令されて愛は生まれません。自分を愛することすらも、実はできていなかったのです。そんな私のところにも、キリストは来てくれた。
愛とは、一つになることへの強い思慕と自己犠牲に基づいた行為です。一つとなることを妨げているのが、聖書の教えている「罪」。私は、その罪の支配のもとにあったのでした。そこから救われるには、永遠のキリストの助けがどうしても必要だったのです。
そして、キリストは私も「一つになる」ことを助けてくれたのです。隣人を自分のように愛することを学びながら歩んでいるところです。
わたしがあなたがたを愛した。キリストのこの言葉が、聖書の中で最も重要な言葉として、私も今は受け止めつつあるのです。
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