清水寺から飛び降りるつもりで観てみた映画『夜明けのすべて』。

『夜明けのすべて』。元パニック障害者として清水寺から飛び降りるつもりで映画を観てみた。

「清水寺?何を大げさに…」と思われるかもしれないが、その一般に「大袈裟」と思われる部分をどう描くかで映画の方向性は変わってくる。予想どおり、これはファンタジーになっていた。PMSに関しては(こちらが知らないからかもしれないが)過剰と思えるまでに、感情の暴発や抑えられない理性が描かれているのに対して、パニック障害に関しては、そのほとんどが言葉での症状説明。その苦しさが伝わってこない。「電車に乗れない」「食事に行けない」「理髪店に行けない」といった表層的なことではこの病気の抱える辛さ、苦しさは伝わりようもない。
しかも、ふたりが働く職場の人たちが非現実的なまでに理解があり優しい。
もし、社会がここで描かれる会社(栗田科学)のように寛容だったら、パニック障害者はもっと生きやすいだろう。

もちろんそこには理由がある。本格的にパニック障害を描いたら、その渦中にある人、そこからようやく抜け出した人は、深い暗闇に引き戻されるだけ。いや、そうでない人もこの映画を観たことががきっかけで発症するかもしれないからだ。それほどまでにパニック障害は恐ろしい。

渋川清彦が見せた涙とその謎。

だからと言って、ぼくはこの映画を頭から否定するつもりはない。主人公・山添(松村北斗)の生きづらさ、そして彼の置かれた立場を(決して声高ではないものの)ストーリーに散りばめてあるからだ。
ぼくが思わず涙したのは渋川清彦演じる辻本の存在だった。
妻を失い一人で子供を育てる彼は、自分の下で働いていた山添を同じく喪失感を抱える

栗田社長(光石研)の工場に預ける。山添の復帰を祈るように見守る辻本。

(ネタバレ注)
ラスト近くで明かされるように、藤沢(上白石萌音)のPMSとは違って、山添は職場の人たちに対して自分がパニック障害であることを話していない。
「公にすることが周りの人の理解に繋がる」PMSと「周囲に隠し通すしかない」パニック障害。この違いは大きい。だからこそ、ふたりが迎える結末は180度変わってくる。
「ぼくはここに残ります」。そう唇を開いた藤沢に向けた辻本の涙。それは「藤沢の居場所が見つかった嬉し涙」なのか、それとも?ここをどう捉えるかは、この映画の大きなキーと言えよう。

(追補)
※劇中で女医が「パニック障害は治るのに10年かかる人もいる」と語っていたが、私は20年以上かかった。
※藤沢の恋人・大島(芋生悠)がロンドンで働くことを彼に告げるシーンは辛すぎた。藤沢は飛行機に長時間乗ることができない。つまりそれは別れを意味するからだ。


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