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ずっちが五日間戻らなかったこと

先日「ずっちの愛情」で、ずっちがドイツ語のことを気に入らなかったということを書きました。

ドイツ語の名誉のために書き加えておきますと、ドイツ語はとても学のある優しい人でした。パソコンに詳しく、わたしのためにソフマップでモニターやキーボードを調達して、あれこれの面倒な設定をするところまで、何度も家に来てくれたのです。わたしはドイツ語のおかげで人並みにパソコンを始めることができました。

ただちょっとドイツ語には上から物を言うようなところがあって、平凡社の「現代人の思想シリーズ」の一冊(『伝統と現代』という本でした)を持ってきて、「これを読んだらキミも一段上がるよ」などと真顔で言ったりしました。

夜中にずっちの急襲を受けてからもドイツ語は家に来ていました。

ずっちが朝まで帰らないことが増えました。それでも、わたしが会社に行っているあいだに置き餌を食べた形跡があり、いったん戻ってきてまた出かけたのだと思いました。

二日帰らないことがあって心配していると、三日目には帰ってきて、わたしはほっとしました。

三日帰らないので、ずっちの好物とミルクを持って野原や駐車場を探しました。ドイツ語はさっそくパソコンで「迷い猫」のチラシを作ってくれました。それを電柱に貼ったり、近くのお店に配ったりするのを手伝ってくれました。二人で車の下を覗き込んだり、マンションとマンションの狭い隙間に向かって、「ずっち〜」「ずっち〜」と呼びかけて回りました。

五日目の夜半を過ぎた頃。ベランダの金網が軋る音がして、次の瞬間にはずっちが窓から入ってきました。

その時、わたしは一人でした。

ずっちは目を爛々とさせて、低い唸り声を発していました。全身薄黒く汚れ、ところどころにタールが付着していました。異様な気配に気圧されて、わたしは声をかけることができませんでした。ずっちはわたしの脇を抜けて水を飲みに行きました。

ずっちがどんな目に遭ったのか知る由もありません。偶然に、もしかしたら故意に、どこかに閉じ込められてしまったのでしょうか? 戻れないような何かがあったのです。容易に抜け出せない所から、必死に脱出してきたことだけはわかりました。その様子から、五日間飲まず食わずであったのだと想像しました。

ずっちが五日も戻らなかったのは、十六年半を通して、この一度っきりです。ずっちがそういう危険な場所に行ってしまったのは、好奇心からかもしれませんが、やっぱりどこかに、家に帰るのが面白くない、ということがあったと思いますね。

ドイツ語もうんざりしていたようです。まもなくしてメールの返事が来なくなりました。






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