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「ずっちのこと」の野原のこと

斜向かいに、ブロック塀に囲まれた原っぱがあった。小さな住宅がひしめいている一角に、そこだけぽっかりと、草花が咲き乱れる空間が保たれていた。原っぱに隣接する巨大な要塞のような家の土地で、そこの方が、草花の種子を蒔いて、あえてほったらかしにしている「野原」だった。木戸が開け放たれていることが多く、中に入ってみたくなる。ずっちは木戸が閉まっているときでも、下をくぐって自由に出入りしていた。暑くなると外にいる時間が長くなり、食事のためにわざわざ戻ってこないこともあった。ミルクとご飯を入れたプラスチックの器を持って、野原の木戸の前まで行き、何度か名前を呼ぶと、草むらの奥から出てきて出前に口をつけた。

この時期わたしはたくさんの写真を撮った。そのほとんどが「野原にいるずっち」の写真だった。ある時、いつものように木戸の手前から、野原にいるずっちの姿を撮っていると、要塞の奥さんが外付け階段の最上階に現れて声をかけてくれた。

中に入っていいのよ。よかったらここから写真を撮ってみたら? わたしに階段を上がってきて写真を撮るよう促した。

要塞から見ると野原がずっと下に広がっていた。そのちょうど真ん中にずっちがいて、小花の咲き乱れる緑の中に埋もれながらこちらを見上げていた。ずっちは小花と見分けがつかないくらい小さかった。

安いカメラを目一杯ズームにしても、ずっちは小さいままだった。写真を撮りかねているわたしに奥さんが言った。

この前もね、野原で猫が死んでいたのよ。

わたしはシャッターを押さずに外階段を下りた。せっかくだから一枚くらい撮っておいたらよかったのに、なぜ撮らなかったのだろうか。

それから十年「野原」は放置されていた。猫たちにとっては、身を隠したり、トイレをしたり、死んだりできる、わずかに残された自然の場所だった。

スライドショーを作るために「野原にいるずっち」の写真を見ていて気づいたのだが、最初は木戸の下をくぐって出入りしていたずっちが、数年のあいだに木戸が傷んで板の一部がなくなっていて、そのなくなった板のあいだから出入りするようになっていた。ずっちの写真はどれも似通っているが、こうして見ると、その数年のあいだにも老けてきているのがわかる。そんなことに今頃になって気づいた。







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