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【特集】野淵昶

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演劇演出家、映画監督として活躍した野淵昶(1896-1968)に関連した投稿をまとめています。 マガジン画像は野淵昶の映画監督デビュー作『長崎留学生』(1935年)のスチール写…
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記事一覧

58. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」

第5節「東映娯楽時代劇黄金期の名監督⑥ 加藤泰と沢島忠」 これまで人気のあった東映時代劇のマンネリ化が言われ始めた頃、東映時代劇に新たな風を吹き込んだ二人の監督がいました。山中貞雄の母方の甥で宝プロ出身の加藤泰、東横映画時代に入社した沢島忠の二人です。 加藤泰  ローアングルで描くリリシズムの名匠  1937年、加藤泰は山中貞雄の紹介で東宝砧撮影所に助監督として入社します。そこで知り合った脚本家の八木保太郎に師事、その縁で東宝を離れ理研科学映画で記録映画の監督となりました

戦前の京都における、幻想作家ロード・ダンセイニの作品受容と紹介

皆様、ごきげんよう。弾青娥です。 このようなご時世になる前は、様々な図書館や資料館にできるだけ入り浸って自分のお気に入りの作家、監督関係の新たな資料を漁るのが週末の楽しみでした。 この度の記事では、このご時世になるまでに集めた資料を活用して、ファンタジー作家、戯曲家として活躍したロード・ダンセイニ(以下、ダンセイニ)とその作品が京都で、とりわけ大正・昭和前期の京都において、どのように受容されたかを取り上げて参ります。 野淵昶(エラン・ヴィタール小劇場)まず注目するのは、

野淵昶ものがたり(3/3) ~京都の花街、松竹新喜劇に貢献し、『月光仮面』の監督を誕生させた舞台の匠~

皆様、ごきげんよう。弾青娥です。 こちらの記事は、以下のリンクで示したような野淵昶のシリーズ記事のフィナーレを飾るものでございます。 今回は第二次世界大戦後の野淵昶の活動と功績を、映画監督以外の面で見ていきたく思います。 舞台に情熱を再び注いだ野淵昶エラン・ヴィタールの復活 1935年からの映画監督としての活動と並行して、野淵は舞台の演出にも携わっていました。歌舞伎の舞台と、様々な劇団の商業演劇のために演出を行ないました。 第二次世界大戦後も、その活動の幅は変わらず

野淵昶ものがたり(2/3)~名女優・森光子、京マチ子に演技指導をした監督は、世界の溝口、小津と映画を語る~

皆様、ごきげんよう。研究活動が功を奏して昭和の映画にも関心を抱くようになった弾青娥です。 今回の記事は、新劇運動家としての野淵昶を取り上げた記事の続きです。 野淵昶は、京都大学在学中に新劇団エラン・ヴィタール小劇場を設立し、関西を中心に15年ほど活動を続けてきました。そのなかで、ジョン・ミリントン・シング、ロード・ダンセイニ、ショーン・オケーシーといったアイルランド出身の作家の劇などを上演した一方、入江たか子という才能を発掘しました。 以下からは、野淵昶が映画監督として

野淵昶ものがたり(1/3) ~女優・入江たか子を発見したアイルランド演劇専門家~

ごきげんよう、弾青娥です。皆様は「あきら」と聞いて、どんな人物が思い浮かぶでしょうか? 例えば、黒澤明、鳥山明、神谷明、伊福部昭、岩崎昶、錦野旦、寺尾聰、中尾彬、柄本明、布施明、小林旭、宮川彬良、池上彰、福澤朗、前田日明、北斗晶、EXILE AKIRA、仰木彬、中村晃、根尾昂、さくまあきら、日日日、御堂筋翔、風間あきら、砂塚あきら……という風に枚挙に暇がないですね。 皆様の知る「あきら」が、上の列挙リスト内にいらっしゃれば嬉しいです。今回の記事ですが、その目的は「あきら」

【映画感想】野淵昶『怪談牡丹燈籠』(1955年)

皆様、ごきげんよう。弾青娥です。 今回の記事は、3回にわたる特集記事を組んで取り上げた演劇人・映画監督の野淵昶(1896-1968)が生涯最後に完成させた映画『怪談牡丹燈籠』への感想文(とプラスアルファ)です。 ※その特集記事については、以下のリンクから閲覧可能です。 ※内容は曖昧に書いてはいますが、ネタバレ防止のため、映画の感想は、以下のリンク集の後から始めて参ります。 この度の主題である映画『怪談牡丹燈籠』は東千代之介、田代百合子を主なキャストに据え、1955年7月

【映画感想】野淵昶『恋三味線』(1946年)

6月15日から22日まで、「野淵昶ものがたり」を、三部に分けてお送りしました。 三部のシリーズが終わったと聞いて、「勝ったッ!第3部完!」という勝気に溢れた声と、「ほーお、誰が野淵昶の紹介をするんだ?」という声が聞こえて来そうです。が、野淵昶の映画感想文を掲載することで、少なくとも私が野淵昶の紹介を続けてまいります。では、以下から本題でございます。 『恋三味線』(1946年)※こちらの映画感想は、2019年の某日に京都府立図書館で『恋三味線』のVHSを見た後に書いた感想に

㊶ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」

第6節「大日本映画党 演劇俳優陣 新国劇」 東映時代劇全盛時代、両御大、月形龍之介に続くスターとしてチャンバラ映画を支えた大友柳太朗、また、今村昌平監督東映配給『楢山節考』(1983年第36回カンヌ国際映画祭パルムドール受賞)に主演した緒形拳、この二人は新国劇出身で、辰巳柳太郎の弟子でした。以前紹介しましたように大河内伝次郎、原健策は大阪の第二新国劇の出身です。今回は昭和の映画界に貢献した新国劇についてお話いたします。 澤田正二郎  早稲田大学の学生だった澤田正二郎は、19

㊱ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」

第5節「大衆娯楽主義 御大のお相手役」  東映時代劇映画全盛期を牽引した片岡千恵蔵と市川右太衛門、二人の御大。娯楽時代劇に欠かせないお相手役を主に務めたのは、戦前から活躍していた木暮実千代、花柳小菊、喜多川千鶴といったベテラン女優と戦後まもなくから活躍した長谷川裕見子でした。 木暮実千代 木暮実千代は日本大学法文学部芸術学科に在学中、劇団活動を行っている時、松竹大船にスカウトされ、1937年『愛染かつら 後篇』野村浩将監督に、まずはテストとしてエキストラ出演しました。  

特撮の神様誕生 円谷英二の軌跡

 円谷英二は、明治34(1901)年7月7日、福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)に、糀屋の長男として生まれた。本名は円谷英一(つむらや・えいいち)。3歳で母・セイを亡くし、祖母・ナツのもとに引き取られた。5歳年上の叔父・一郎を兄のように慕い、その思いからのちに「英二」と名乗るようになる。須賀川町立尋常小学校では成績優秀、自宅の蔵の二階の私室で水彩画に没頭する。  英一が9歳となった明治43(1910)年、代々木練兵場で陸軍の徳川好敏、日野熊蔵の両大尉が日本初の公式飛行に成