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表現と感覚のギャップというギフト

あんたは自分を見つめ直すってことをどうやってやっている?

俺の場合、日々の生活について考えることはあっても、客観的に自分のことを考えることはマレだ。いろんなことに思いを馳せることはあっても、それを見直すってことが本質的に苦手なのかもしれない。

ホント、大事なことだってのは分かっているんだけれどね。

今回は、そんな大事な「自分を客観的に見直す」ってことを考えてみる回だ。

なあ、あんたの明日について考えてみるのもいいかもよ?

とある日本語教師の見直し

まあ、そんな風に考えて見るきっかけをくれた記事がこれだ。

アオボウシさんは留学生に向けて日本語を教えている日本語教師だそうだ。
アオボウシさんのような直接日本国籍以外の皆さんと触れ合う職業だと尚更感じることかもしれないが、ここ10年で俺たちが日本国籍以外の皆さんと接触する機会ってのは倍増したってあんたも思うよな。

この記事の中で、アオボウシさんは日本語を学ぶ生徒さんの目から見た日本人が変わってきたという感想について触れている。

日本人は前よりもはっきりとものを言う様になってきた。

そのように、アオボウシさんの生徒さんは言ってくれたそうだ。

生徒さんは大学生。
前よりもというのは、中学、高校の時にその生徒さんが抱いていた日本人感と比べてはっきりとものを言うように日本人が変わったという話なんだろう。

アオボウシさんはその生徒さんの日本語による認知能力の向上がその感想を生み出したんだろうと分析している。

なるほど、日本語教師という立場ならではの分析だなぁ。

確かに自分がアメリカに行ったとして、最初の1年と次の1年では、会う人々に対する印象が変わるってのは普通に起きそうだ。
自分の使う言語が自分の認識を変化させるってのはよく聞く話でもあるしね。

つまりは俺たちは俺たち自身の認識能力を向上させるために、自らが用いる言葉ってやつに注目する価値があるってことだよな。

俺たちの言葉が俺たちにくれるもの

そして、その認識能力の向上を更に発展させるのがアウトプットをするってことだ。
俺も日々このnoteと向き合って自分の頭の中を言葉にする作業に没頭している。

自分の中の感覚を言葉という非常に表現方法として限られた手段で変換してみようとする。

そうすることで、当然ではあるけれど、俺自身の中にある感覚と表現してみた言葉の間にギャップが生まれる。

そのギャップをノイズってあんたは捉えるかもしれないけれど、俺はそのギャップこそがギフトなんだと思うんだよな。

なんで俺たちの感覚を正確に伝えることが出来ないことがギフトなんだよ?

あんたはそう思うよな。

まあ、これは俺の独りよがりな考え方に過ぎないとは思うんだけれど、そのギャップって俺たちの気づきになっている気がしないか?

感覚として俺たちの中にたゆたっているものに言葉というカセをはめる。

そうすることで、その言葉は俺たちから独立した「情報」になる。

その「情報」は改めて読み直すことで、俺たちにとってのあらたなインプットになる。自分でアウトプットしたものが、客観性をもって俺たちのインプットになるってことだ。

試しにあんたが1ヶ月前に書いたなにかがあるようであるなら読み返してみるといい。

1ヶ月前のあんたがあんたにとって他人のように思えると思うぜ?

それは1ヶ月前のあんたと今のあんたを比べて変化が起きているという側面もあるだろうが、それ以上にあんたが表現しているものとあんたが感じていることのギャップがあるってことを実感できると思うよ。

そして、そのギャップこそが、俺たちが何かを表現するってことの意味なのかもしれない。

俺たちは日本語というネイティブな言語を使ってすら、俺たちのことを表現しきれていないってことだ。

この事実は俺たちに表現するってことの難しさと面白さを同時に伝えてくれる。
よく、言われているよな?誰々は分かっちゃいないんだなんて言葉。

たしかに分かっちゃいないってこともあるだろう。
でもそれは同時に「伝えられちゃいないだろう」ってことを意味している。

そのことを忘れずにいられること。

それが俺らの感覚と俺らの表現のギャップを読み取ることによって得られるギフトってわけだ。

なあ、あんたはどうだい?

俺たちは、どれだけきちんと俺たちの考えていることを言葉にできているんだろうな?

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