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俺たちの関数

あんたは自分が何者なのかってことを考えたことがあるかい?

きっと多くのヒトが若者であるときに感じる疑問。

「自分は何者なのか?」って疑問だ。
この疑問は実のところ答えなんてものが出るものじゃない。

それ故に、いつしかその疑問に蓋をして生活を続けるようになるってのがありきたりな生き方ってやつなんじゃないかと想像するんだ。

正味な話、俺自身「自分が何者なのか」なんて問に答えられる気が全くしていない。
ってか、そこに答えを見いだせる道すら見えない。

でもさ、自分が見ることが出来る自分以外の誰かの「何者」ってやつは自分なりに答えを出せるかもしれないもんだよな。

今回は誰かの中の「何者」ってやつについて考えてみる回だ。

ちっと観念的かもしれんけれども、付き合ってくれよな。

何者かについて考える

今回、そのヒトが「何者か」ってことを考える切っ掛けをくれたnoteがある。

お世話になっているねむるまえにさんのこのnoteだ。

ねむるまえにさんは油絵を書いたりミリペンで絵を書いたりする芸術肌の御仁なんだけれども、その方が関数についての本を読んだんだそうだ。

なに?関数と絵と何が関係あるんだって?

めちゃくちゃオオアリだろってこのnoteは思わせてくれる。

こんな表現をしてくれている。

今は、小説を読んでいます。それはとある画家さんのfを知る為です。
出典:上記note

誰かのf(関数)。

こんな詩的な表現あるか?

前々から俺が散々パラnoteで書いてきたことに「ヒトという生き物には自由意志はない」ってのがある。

ヒトは外部からの刺激かランダムに対して反応することしかできないってやつだ。
笑いたいと思って笑う事はできないし、泣きたいと思って泣くこともできない。

出来るのは自分の感情を引き起こすであろう刺激を求めて行動するってことだけだって話ね。

これって言いかえると自分というFunction(関数)があるってことになると思うんだ。
なんかエモくね?

変わり続ける関数

自分を規定する関数がある。
そう思うと、まるで自分がプログラムみたいで嫌だってあんたは言うかもしれない。

ところがだよ。
この関数は変化する。
インプットされる情報によって変化する。

だってそうだろう?
ヒトは学習によって成長するってのは見まごうことなき事実じゃんか。

つまり、俺たちは受け取る情報を取捨選択することで俺たちの中の関数を作り込んでいけるってわけだ。

ところが困ったことがある。
俺たちは俺たちの関数が今どんな状態にあるのかってことを観測できないんだ。

どんなインプットをすればどんなアウトプットをするのか。
そのことを自分自身で想定することができない。

現状が観測できないのでその関数にどんなインプットを与えれば理想の関数が出来上がるのかを想定できない。
ってかそもそも理想の関数の状態ってやつを定義することも難しい。

自分を関数と捉える感覚

理想の関数。
つまりなりたい自分ってやつを言葉にするのって結構難しい。

ほしい技術ってんなら言葉にしやすい。

プログラムを息をするようにかけるようになりたい。
とか
感動できる文章をかけるようになりたい。
ってのは言葉にしやすいじゃんか。

ところが
何に対してどんな感情を感じる人間になりたいのか?
ってのは結構難しい問いだと思うんだよ。

鬼滅の刃の善逸の鬼におののいている様を見て笑う自分が良いのか?
Final Fantasy Xのティーダがユウナの宿命を知ったのを見て涙する自分が良いのか?
一向にプライマリバランス目標を撤回しない政府に怒りを覚える自分が良いのか?

そう考えると自分の「感情」は自分以外にはあまり意味がないのにも関わらず、自分にとってはものすごい意味があるってことに気づく。

俺が主張する理屈は観測できるからあんたに意味を感じてもらえるかもしれないけれども、俺がどう感じるかはあんたには観測できないからね。

あれ?でもおかしいぞ?
俺はあんたの感情に興味がある。
あんたの関数に興味がある。

なあ、あんたはどう思う?

この興味の非対称は何かを生み出すんだろうか?

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