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俺たちの外にある価値観を飲み込む

あんたは普通に生きることってどう思う?

俺たちは思いの外この普通ってやつに価値を見出している。

学校教育で俺たちは普通のプロフェッショナルになるべく教育を受けてきた。

普通の学問に普通の人間関係。普通の食事に普通の生活態度。

それが日本人の特性ってやつなのかもしれない。俺たちの日本は農耕民族だから、特にイレギュラーってやつは都合が悪いって事実もありそうだ。

今回は、この普通に生きることについて、ちっとばかし考えてみる回だ。

普通って、大事だけど怖いぜ。きっと。

普通に囚われている俺たち

たとえば、こんなニュースがある。

とある子供が発達障害と疑われたときに、その母親がそれを認めなかった。その結果その子供は不登校となってしまった。
でも、特別支援学級に通うことによって、また登校できるようになったって記事だ。

このニュースを見て、特別支援学級に通わせるってのが、勇気ある決断だと思うやつは一定数居ると思う。

つまりは、自分たちの子供を普通ではない境遇に置くことに俺たちは息をするように自然に違和感を覚えているってことだ。

特別支援学級っていう制度を利用することが、「うちの息子は何か劣っている」ということを認めるってことだから抵抗があるんだろうな。

つまり普通ってのは、優れてもいないけれど秀でてもいないっていう、世の中を優れているか劣っているかって言う一次元で捉えた価値観ってことなんだろうね。

価値の多様化が進んでいる今

でも、この劣っているって感覚そのものが、今の現実から乖離していると思うんだよな。

今の世界は星の数ほどの価値観によって構成されている。
インターネットの出現によって、その価値観の分化は加速度を増している。

分化した価値観は、各々独自の評価基準を持っている。例えば、もらすとしずむさんの音楽の価値観と、米津玄師さんの音楽の価値観は、おそらく異なっている。

重要なのは、異なっているけれど、その各々の価値観は、各々の評価と対立していないってことだ。

俺たちは、もらすとしずむさんの音楽も米津玄師さんの音楽も楽しむことが出来る。つまりは、価値観の多様化ってのは世の中を良い悪いって一次元で捉えることを許さなくなってきているってことなんだと思うんだ。

人間の欲望

でも俺たちは、俺達自身に対する評価や子どもたちに対する評価をどうしても一次元でやりがちだ。

勝ち組、負け組なんて言葉は最たるもんだよな。

あんたも自分が勝ち組になりたいって思うだろ?
多分、この一次元的な物事の捉え方ってやつをしてしまう原因は、俺たちが本質的に求め続ける生き物なんだからなんだと思う。

今よりも向こうへ。

それが俺たちヒトが抱えている本質なのかもしれない。

ただ、俺たちオッサンが教育を受けていた時代と今では決定的に価値観の分化の状況が違う。

今よりも向こうはいいが、その向こうのある場所が人によってバラバラになっちまっているのが今という時代何だと思う。

到達するべき未来がバラバラ。それは、俺たち同士が共感することがどんどん難しくなってきていることを意味している。

そりゃ、各々で違う価値観を持っているわけだから到達点がバラバラなのは当たり前。
そんな状況であれば、普通って価値観って何になるんだ?

俺たちに必要なのは普通っていう無形の価値観に寄り添うことではなくて、そのバラバラになっている価値観をいかにして自分の中に取り込むことができるかなんじゃなかろうか?

そうでもなければ、俺たちは俺たちの周りにいる奴らをどうやって認めることが出来るんだって話だ。

誰も認めないって生き方は、俺たちの人生を確実に狭めてしまうからな。

あんたはどう思う?

俺たちはどうやったら俺たちの外にある価値観ってやつを飲み込めるんだろう?

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