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定年の矛盾と俺たちの能力

定年って言葉について、何かしら思いを巡らしたことがあんたにもあるかい?

実際、俺たちオッサンにとっては定年って時期は確実に来る現実だ。
延長雇用なんて勤務形態も用意されてはいるものの、その実態は給料4割カットで同じように働きなさいっていう、なんとも奴隷制度すら彷彿とさせるような勤務形態だ。

それでも、毎年キッチリと頼んでもいないのに時は進む。

今回は、定年って制度について改めて考えてみる回だ。

まあ、オッサンくさいことこの上ないが、つきあってくれよな。

定年という制度

そもそも「定年」って制度がどっから来ているのか?
調べてみると、最高裁判所の判例で以下のようなものがあるってのが根拠らしい。

およそ停(定)年制は、一般に、老年労働者にあつては当該業種又は職種に要求される労働の適格性が逓減するにかかわらず、給与が却つて逓増するところから、人事の刷新・経営の改善等、企業の組織および運営の適正化のために行なわれるものであつて、一般的にいつて、不合理な制度ということはできず、……。
(「就業規則の改正無効確認請求」最高裁判所大法廷 昭和43年12月25日)

要するに、歳取ると仕事の能力が「一般的に」衰えるでしょって話らしい。

だとすればだよ。
あんたのところにも評価制度ってやつがあると思うが、その評価制度に照らして、「会社に貢献した」と判定されているヒトが定年を迎えたからって言って、仕事を辞める制度ってのは制度的に矛盾があるよな。

ちなみにこの定年って制度は日本独特のものらしい。
結構、びっくりじゃないか?日本だけがこの根拠に乏しい制度を採用しているってのは。アメリカやらフランスでは定年なんて考え方が無いっていうんだよ。

定年を「当たり前」と感じる状態

なんで、日本ではこの定年という制度が根付いているのか?

歴史を紐解いてみると、年齢を理由に辞職、つまりクビになる制度は大奥から始まっているらしい。

大奥では、30歳を超えると妊娠の確率が下がるって言うんで、殿様のお相手を辞退するって決まりがあったらしい。
「おしとね御斷り」って制度だ。

これもまた、大奥という組織の性質上の制度なんだろうが、それも個別の確率論によって成り立っているって意味では定年制度と同じことになるよな。

でも、その「おしとね御斷り」の制度を聞いて、俺たちはどんな感想を持つんだろうか?
仕方ないよね、か?
差別だ、か?

なんとなくだが、6:4で「仕方ないよね」になるくらいなんじゃなかろうか?
4割はその理不尽さに義憤を燃やしながらも6割は諦めているって感じじゃないだろうか?

では、その6割の感覚はどこから生じているんだろう?

おそらくだが、その感覚は姥捨山の感覚が俺たちの骨の髄にまで染み渡っているってことなんじゃないだろうか?

若者に世界を引き渡す

日本には姥捨山という物語がある。
単なる物語かと思いきや、武田信玄が実際に執り行った政策らしい。

ときは戦国時代。莫大な戦費によって世間は貧困にさらされていた。
そんな時代では、労働力の確保が何よりも大事になる。
労働力を確保するために、労働力にならないヒトを切り捨てる。
そういう苦肉の策としての姥捨山だったわけだ。

その制度は物語として広く俺たちの文化に浸透して、結果「老人は若者に世界を引き渡すべきだ」という考え方が一般の物となったんだと思う。

その考え方は息をするように自然に会社制度に取り込まれた。
すなわち定年だ。

年功序列が一般的だった高度成長期。
老齢になるに連れ、その人材のコストが割高になっていた。
そうなると、拙いながらも安い労働力である若者の労働力のほうがより効率が良い仕事がこなせなくなっていく。

その対策としての定年制度ってわけだ。

でも、現在。年功序列なんて言葉は完璧に無くなっている。
評価制度も非常に大きなほころびがあるとは言え、きっちりと評価にともなった賃金が支払われている状態だ。

そうなってくると、定年制度に対する正当性がどんどん失われていっているってことになるよな。

でも、会社組織としては、無限にヒトを雇えるわけじゃない。
新しい人材を雇い入れるってことは、組織として必然であり、それをしない組織は必ず滅んでしまう。

つまり、ヒトを雇うためにはヒトに辞めてもらう必要があるわけだ。

誰に辞めてもらうのがいいのか?

成果を残せなかったヒトか?
でも、この多品種小ロット時代に会社は大量のトライアンドエラーを試行して見る必要がある。
その会社の意向に従ってトライをした結果「エラー」を担わされたヒトを組織は正確に評価できるんだろうか?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは俺たち自身を組織に必要な人材だと年齢以外の何かで表現できると思うかい?

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