ニュータイプの希望とSEEDの絶望
あんたには心のどこかに残り続けている物語ってのがあるかい?
物語ってのは実に多くの影響をヒトに与えるもんだと思う。
「人間失格」なんて、あの物語からヒトと感情を通わせることの難しさみたいなものを感じて、めちゃくちゃダウンな精神状態になったヒトもそれなりにいると思う。
しかも物語としては完成されているものだから、これからもずっと読まれ続けていくだろうから、その影響を受けるヒトはドンドコ増えていく。
いや悪いことかどうかなんて言ってなくて、影響は無限に広がっていくってことね。
その意味では、今ものすごい勢いで物語が作られているじゃん。
アニメね。
なんか、ワンクールごとに50本くらい作られているんだろ?
えぐい増え方だよな。
まあ、そんなこと言ったら「年間にどんだけ書籍が出版されていると思ってんだ、ボケが!」って言われちゃうかもしれないけれどさ。
今回はそんな星の数ほどの物語の中で、俺に傷跡を残した作品について考えてみる回だ。
ちっと昔話に付き合ってくれよな。
機動戦士ガンダムSEEDという物語
そんな俺の中にしこりの様に残り続けている物語。
それが機動戦士ガンダムSEEDという物語だ。
今更語るまでもないかもだけれど、新たな1stガンダムと銘打って世に送り出された作品だ。
まあ、1stのオマージュが多すぎてどうなんだとか、バンクが多すぎるぜとか、夕方の番組で男女の営みを表現するなとかいろいろ言われた作品だ。
確かに表現としていかがなものかってのが結構あるんだけれど、それこそスケジュールだとか諸所の事情ってのにがんじがらめにされてどうにもならなくなったことによって作品表現として不満がたまることが多い作品だったとは思う。
でも、それを乗り越えて「見続けさせる」力を持っていた作品でもあると思うんだよな。
数々のセリフによって物語に引き込まれていくからくりはいっぱいあったと思う。
「不可能を可能にする男かな? 俺は」
なんて、LINEのスタンプでもありそうだよな。
使い勝手が良いかどうかはおいておいて。
SEEDのテーマ
で、だよ。
そもそも機動戦士ガンダムSEEDという物語で制作者が伝えたかったテーマってのは何なんだってことなんだけれど、ぶっちゃけ「ガンダム」だったように思うんだよね。
ガンダムはオモロイですよ~。
でも1stの昔のテイストだと今みるのはつらいですよね~。
だから、今どきのテイストにして描きなおしてみましたよ~。
ってことなんだと思うんだ。
じゃあ、ガンダムのテーマってなんだ?
おそらくは「ニュータイプ」だよな。
もっと言うなら「ヒトはわかりあえるかもしれない」という希望がテーマだったと思うんだ。
そう捉えてみるとだ。
SEEDのテーマってちっと違うよな。
「ヒトは分かり合えない」という絶望のテーマだと思うんだ。
SEEDの絶望
SEEDの世界観ってさ。
ホント逃げ場所がないんだよな。
主人公のキラたちが最終的に行動するグループもさ。
全然国家的な背景を背負っていないから、めちゃくちゃ個人ってものにフォーカスした状態になっている。
つまり、世界中のヒトたちと共有する物語を持てていないんだ。
SEEDではナチュラルとコーディネイターという個人の努力ではどうしようもない差が生まれつき備わっている世界観だ。
その世界観でヒトは何を始めてしまうのか。
自分とは違う他者を滅ぼし始めてしまう。
これが始まったらヒトという生き物はどうすることもできない。
お互いが居なければ平和になるという物語に支配されてしまう。
そして、主人公のキラたちはその物語に代わる物語を提示できなかった。
結果ラウ・ル・クルーゼやジェネシスみたいな「わかりやすい何か」を倒すことしかできないで物語は終わる。
これを書いている時点では俺は劇場版SEEDまで見ない状態なんだ。
もしかしたら劇場版SEEDで何か答えが出るのかもしれない。
でもさ。
ぶっちゃけ、ヒトは今も「俺たち」と「奴ら」に分かれて戦争をしているんだ。
なあ、あんたはどう思う?
SEEDの「絶望」と実世界の「絶望」がリンクして見えるときに、俺たちは何をどうすれば良いんだろうな?
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